帰属意識とアイデンティティ


 

桜の人モード

前の記事『帰属意識とナショナリズム』からの続きです。

『HINOMARU』を歌うRADWIMPSは若者に人気のグループであるらしく、批判に対しての批判として若者の擁護が大きな声となっているようだ。ますます「近頃の若者は右傾化している」と言われるかもしれないが、反左傾が実態ではないだろうか。そしてこれは世界的傾向にある。

つまり、右傾化への流れを作ったのは皮肉にも、左派メディアと左派運動家のポリティカルコレクトネスだと私は考えている。

国境のない世界、男女の別の無い世界、個性だ多様性だと言いながら個性について言及すればすぐに差別だハラスメントだと批判される世界、平等は「命の価値」に留まらず何でも平等にと人間価値を画一化しようとする指向性。それが抑止力としてはたらいているうちは良かった。現代はそこを過ぎて全体主義化へ向かってしまっている。

 

いったい「私は何者なのだ」と問う。

「いや君は地球人のひとりなんだよ。なんの別もなく。」との答えには、「そうか、私は世界73億人と同じなんだ。」という、”のっぺら感”をもち、じゃあ自分は誰とも同じ者なんだとなる。親が誰でも国がどこでもどの宗教を信仰していても、そこに帰属意識も誇りも持たず「らしさ」もなく地球人としての一個人。

帰属を地球人だけとするのならば、「私は何者なのだ」のなかに自分の生物としてのルーツも、自分の意思も思想も、価値も欲望も何も組み込むことができない、ロボットと同じ存在になってしまう。

アイデンティティは混乱し自我喪失の危機を無意識に抱え込む。

人間は「私はこれこれこういう者だ」というアイデンティティをしっかり確立しなければ精神の不安定を招く。ポリコレによって失われていくアイデンティティを呼び戻そうと、帰属意識をもてる何かに無自覚に依存しようとする心理が芽生えるのは健全かつ必然である。全世界的にうつ病が急増しているのは、ポリコレ運動によるアイデンティティの混乱と危機がその一因となっているのではないかとさえ思える。

そうしたアイデンティティの混乱に最も敏感なのは若者であり(アイデンティティ確立の真っ最中)、『HINOMARU』の歌詞を肯定的に共感をもって受け止めるのは世界の趨勢からみて健全で自然な心のはたらきだと思う。

 

アメリカ人は子どもの頃にアメリカ合衆国への忠誠を誓う。それに加えて8割以上の国民はクリスチャンとして、親に言われるまま子どもの頃にキリスト教および聖書への忠誠を誓う。二重の忠誠の誓いによって子どものアイデンティティは強固に確立されてゆく。

アイデンティティという言葉を心理学に導入した心理学者エリク・エリクソンの著書『洞察と責任』のなかで彼は、「自分は何者か」というアイデンティティの確立過程における青年時の一時期、帰属意識をもてるもの(アメリカで言えば国家とキリスト教)に対し忠誠心をもち、そこから湧き上がる「尽くす心(フィデリティ)」の発達と、尽くす心を与えたり受けたりする能力を得ることが、若者の心の健康の条件のひとつであると述べている。

確立の「過程」に留意すべきは言うまでもないだろう。

青年時を過ぎ社会体験を深めてゆくことによって、忠誠心を踏み台にした自律と自由の意義や人間個性への省察が深まり、次の段階のアイデンティティの確立へとステップアップしてゆくのである。

 

翻って日本の事情を顧みれば、敗戦後に「国家に忠誠を誓うこと」「天皇に忠誠を誓うこと」をアメリカによって厳に禁止され、子どもの忠誠心をはぐくむ場を取り上げられてしまった。

そうした日本人をかろうじて救ったのは、現代で悪徳のように言われている「先輩や監督に忠誠を誓う」学校時代の体験や、終身雇用制による「会社等の組織への忠誠」の誓いだったのだと思う。それが日本人のアイデンティティ確立の一助となっていたのは間違いない。名刺に刷り込まれる所属団体(会社等)と肩書、役職が「自分」だった人がマジョリティを形成していたのではなかったか。妻はその夫の社会的地位を自分のアイデンティティに援用していたのではなかったか。

その是非がどうのこうのではない。「自分は何者か」に迷わない、アイデンティティの確立として「役に立っていた」はずだということを言いたい。

今ではその忠誠心を利用して従順にさせようとする管理職や経営者・各団体トップが跋扈している世のなかになってしまった。これほど管理職にとって楽なことはないという手法で。まことに情けない。

さて、これから社会へ飛び立とうとする現代の若者に、入社したての新入社員に、アイデンティティ確立のための「尽くす心」を発達させる環境は一体どこにあるのか。

この点については単に正悪の価値を決めてしまうのではなく、柔軟に考察を深めてゆくことのほうが優れた道だろうと思う。

 

ところで、見返りを求めない尽くす心、献身の美学は、国家や天皇への忠誠心によらずとも日本文化に深く根付いていた。日本という国家に対するナショナリズムは比較的新しく生まれたもので、長きにわたった封建社会における武士の城主(藩主)に対する忠誠心がロールモデルとなって、町人や農民などの一般国民に対しては、忠誠の美学が一途(いちず)の美学と献身の美学となって浸透していったのではないかと、丸山眞男の『忠誠と反逆』を読みつつ、そう私は考えました。

アメリカでは国家とキリスト教に二重の忠誠を誓うことを例として上述しましたが、イギリスでは国王に忠誠を誓います。ドイツにも忠誠宣誓があった。各国での忠誠の誓いは秩序として機能しただけでなく、対外的なプライドとして、また、アイデンティティとして個人が社会に根を張る確かな要因となった。

 

日本では城主(藩主)に忠誠を誓う武士(奉公人)の立場は上下関係の厳しい秩序としてのみ理解されがちではありますが、実際のところ、その「忠誠を誓った自分自身」の生をまっとうするという極めて個人的な美学に貫かれていることは、丸山眞男の『忠誠と反逆』だけでなく倫理学者の相良亨など多くの先学が指摘するところであります。

「忠誠の美学」というテーマは歴史的にも心理的にも奥が深い。とてもとても、一つの記事でまとめ切れるものではありませんでした。帰属意識と切っても切れない関係である忠誠心とそれに伴う美学。そして忘れてならないのは、忠誠心を転倒させた「反逆の美学」もあるのです。考察を今後も続けます。

 

次の記事では本記事の続きとして『アイデンティティ』を予定しています。