『日本』という個性(2)


 

桜の人モード

「愛してる」

小林麻央さんの最後の言葉を海老蔵さんが公表したとき、胸が熱くなったかたが多かったのではないかと思います。私もそのひとりです。

私の世代では「愛してる」は世間のそこらじゅうに溢れていて、言葉にするにはちょっと照れくさいながらも、エーイ言ってしまえ!で言える言葉になっていました。おそらく団塊の世代の人たちまでは、歯の浮くような「愛してる」を、口から出す言葉としては憚られたのではないでしょうか。

現代のように幾つかの語義を「愛」という言葉がもつようになったのは、近年になってからのようです。

倫理学者の竹内整一さんは次のように述べています。

「ぼくはかつて一度も、誰かに対して“愛する”という言葉を使ったことはない」と言ったら、「え?」という、戸惑いの反応があった。あえていえば「気の毒に」、という表情でもあったようにも思う。

勤め先の女子大で、倫理学の講義をしたときの話である。いや、むろん人を恋したことも、好きだと言ったこともあるけど、と続けたら、なアんだという顔をされた。

(春秋社 竹内整一著 『やまと言葉で哲学する』 p43 )

西洋の「LOVE」は、神によって「愛しなさい」と命じられたことから始まっているらしい。もともとの日本語の「愛す」は、「相手を大切にしてかわいがる」という用法で使われてきたと、同書では述べられています。心のうちで思うというよりも、外的な表現として使われた言葉という印象を受けます。

また、仏教は愛欲や愛執、愛着を人間の煩悩として悪いものとして否定しました。仏教の源であるインド哲学では、すべての感情を棄てることが悟りだとします。同書より孫引きになりますが、「キリスト教が伝来したとき、キリシタンはキリストの愛を「愛」と訳さず、多く「ご大切」と言った」(岩波古典語辞) という歴史を振り返っても、仏教が広まった当時の日本では、「愛」はあまり良い観念ではなかったことがわかります。

 

では、愛ではなく、どのような言葉で現代の愛を表現していたのかについてですが、同書では以下のように解説しています。

 

近代日本人が、かつて使われていた「惚れる」「恋する」「慕う」といった言葉に代えて、「愛する」「恋愛する」という言葉を、高邁な、しかし欺瞞的な理念を込めてふり回してきたという批判としては重要な指摘である。

ちなみに、「ほれる(惚れる)」とは、「心が朦朧となり思考力・判断力などを失う」が原義であり、「思いをかけて心を奪われる」という意味である(『岩波古語辞典』、以下同)。

また、「こふ(恋ふ)」とは、「ある、ひとりの異性に気持も身もひかれる意」で、もともとは「君に恋ふ」と助詞に「に」で受けていたものである。「君」によって「恋」という状態にまき込まれたのだという原初の事態をよく反映している(「君に恋ふ」という用法は平安以降)。

さらには、「すく(好く)」とは、「気に入ったものにむかって、ひたすら心が走る。一途になる。熱中する」ことであり、「したふ(慕ふ)」とは、「下追ヒの約か。人に隠した心の中で、ある人・物を追う」ことである。

(春秋社 竹内整一著 『やまと言葉で哲学する』 p45-46 )

 

相手に直接面と向かって言えるのは、「好きだ」くらいなもので、「君に惚れた」「君に恋している」「君を慕っている」という文言はほとんど使わないと思うのです。内心を表す言葉ですよね。

特に、「慕ふ」という感覚が現代では薄らいでいるのではないかと感じますがどうでしょう。

大河ドラマや時代劇では「お慕い申しております」と文(手紙)にあったりしますけれども、上記の「人に隠した心の中で」を思えば、隠しとおすことが美しさであって、本当にそういう文があったのかどうかは疑わしいところです。

 

「愛される」より「慕われたい」と思うのは私だけでしょうか。

もっと言えば、私は、愛されたくはありません。

口から出る言葉で「愛してる」ことを表現されるよりも、言葉には出さずに行動で「慕われている」ことが解る(肌で感じとるわけですが)ほうが百万倍も嬉しいと思うのですが、いかがでしょうか。

「慕ふ」を大切にした日本文化というのは、とても知性的だと思います。

なんでもかんでも開けっぴろげにオープンにしていけば、それはそれは誰にでも解るし、誤解されないですむし、これほど単純なことはない。けれど、理解されなくてもいい、誤解されてもいい、美しくあるために隠すというなかに、知性の奥深さを感じるわけです。

 

古典で有名な言葉があります。

 

秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず

 

世阿弥の風姿花伝にある言葉です。

ここで世阿弥は、秘することに絶大な効用があると説きます。

それは、自分自身に対する矜恃というべきものと、相手に対する心理的効果の二つが大筋なのですが、いったい、650年も前に秘することの心理的効果を考えた人は、世界のどこにいたでしょうか。

「秘せずは花なるべからず」は、人を飽きさせないこと、好奇心を失わさせないこと、探求心を豊かにさせることという、知性的な人間の生命活動にミートするものです。

 

人間としてもそうですが、昨今、性的欲求について語られる文脈では、肉体的欲求に対象が集中しているきらいがあって、下等動物としてあけっぴろげに皮膚接触的欲求をはたすだけという単細胞的な議論がほとんどです。男性も女性も、秘すれば花、秘せずは花なるべからず、という、高度に知性化された性的欲求について解っていない人が多いことに驚きます。男性も女性も性的魅力がどんどん失われている世相を感じます。

私の知る限りにおいては、「秘せずは花なるべからず」という古典日本文化と同質の文化は世界のどこにもありません。深く考察すればするほど、相当高度な知性的行為です。すべてをあらわにしないということは、観客(相手)の想像心のなかに個人的に芽生える趣に、つまり観客の知性に委ねるという面では、フランス映画のエンディングの「美」に重なるものがあります。

 

何が良い、何が悪いと白黒をつけて深い考察を反知性的にサボタージュする価値の単純化として、「秘すれば花なり」を絶対善だと言うつもりはさらさらありません。日本人が大切にしてきた歴史文化に気づき、わが身に宿し直すことは、心が少し、豊かになる気がするのです。