情(こころ)の芸術


 

黄昏人モード

梅雨のシーズンは多湿で不快指数が上昇しますね。クーラーによって除湿された部屋で快適に過ごす現代人。けれど、夏の暑さ冬の寒さ、そして梅雨の多湿感をそのまま経験してゆくことによって、日本人の抵抗力のある丈夫な体がつくられてきたのだとも思います。

こころにも当然、波が生まれます。波浪警報が発令されるような高波や荒波もあれば、平和に凪いだ海もある。感情の起伏とどのように付き合っていくのかは、もしかすると、日本の季節の移り変わりに似ているかもしれません。

 

山折哲雄さんと齋藤孝さんの対談本『「哀しみ」を語りつぐ日本人』のなかに、『感情の“ふるさと”は「季節感」にあり』というテーマがありまして、山折さんは、「“堪え忍ぶ梅雨”が感情に旨味を与えてきた」と書いています。

梅雨と言えば、食品の腐敗が非常に早い時期でもあります。感情を食品に喩えて、山折さんは子ども時代を振り返り次のように語ります。

 

いまあらためて梅雨の季節を思い返してみると、それはありとあらゆるものが腐敗する時期だったような気がします。いわば「腐敗→発酵」という過程をたどることで、じつはすべてのものが成長し、新たなものが生み出されていく。梅雨とはそんな季節でした。

腐敗→発酵といえば、酒や醤油、味噌などが典型ですが、これらは原料となる米や大豆を一度腐敗させ、そこから旨味のエッセンスを取り出すという意味で共通しています。

思うに、この腐敗→発酵のプロセスは、人間の感情、とくに日本人の伝統的な感情作用に大きな影響を及ぼしているのではないでしょうか。

つまり、「ストレートに感情を表出するのははしたない、浅薄だ。むしろ、洗練された真の感情というものは、一度自分自身のなかで腐敗→発酵というプロセスをたどり、そこからはじめて生み出されるものだ」という認識が、私たちの頭のなかにはたしかにあったのです。

(PHP研究所 山折哲雄・斎藤孝共著 『「哀しみ」を語りつぐ日本人』 p51)

 

腐敗→発酵を感情に当てはめて、梅雨というシーズンは日本人のこころになくてはならないシーズンなのだと述べています。発酵させて夏を迎えるというわけです。

特にこの書は「哀しみ」(※注:悲しみではない)をテーマとしていますので、山折さんの論でいえば、「哀しみ」を腐敗させる。その次に、発酵させるのかおのずと発酵するのかわかりませんが、例として、太宰治と寺山修司を挙げています。二人とも青森出身で、厳しい北方の生活習慣が、秀逸な文学を発酵させる微生物のはたらきをしたのだろうと。

 

しかしですよ。

発酵すれば確かに良いのだろうけど、有機物が分解して腐敗したまま、さらに腐乱の状態になってしまうこともあるわけです。「哀しい」という感情が腐敗し発酵せずに腐乱していく一方であれば困ってしまいますよね。

発酵に必要な酵素が活発にはたらくには、環境が重要らしい。

失恋した時や心に傷を負ったときに、日本人は北へ向かおうとします。この習性はこの書にも書いてあるのですが、理由は判然としないようです。演歌の歌詞のせいかもしれませんが、それは逆で、古くから、なぜか北へ向かおうとする人が多いからそういう演歌の歌詞がウケたという説の方が有力なのかな。

よくわかりませんが、私にも、もの哀しい北国へのあこがれの情があります。

深雪に閉ざされた北国の冬をイメージすると、「哀しみ」を心の小箱にいったん封印して閉ざし、ゆっくりと醸成させ、発酵してくるのをひたすら待つということかもしれません。雪解けの春をひたすら待ち続けるように。

発酵させる酵素は、外部にあるのではなく、自分の心のどこかに内在しているはず。

 

極寒のロシアで生まれた、『カチューシャ』『トロイカ』『ともしび』『黒い瞳』『カリンカ』『ポリュシュカ・ポーレ』などのロシア民謡が日本人に心にフィットし、日本の子どもたちが好んで歌うのは(今はどうなのか知りませんが)、なぜでしょうか?

「哀しみ」とは、情(こころ)の芸術なのかもしれない。