孤独のカタルシス


 

黄昏人モード

人類は社会的な動物で、世界地図に人の群れを俯瞰イメージしてみれば、一種類の生物が特に平地に密生し、群生している絵図が浮かびあがります。

自分たちに人類という名を与えた人類にとっては、群生しているなかでの自分らを主観的に観察することが主体となっており、たかだか80年間の生命活動に何がしかの目的や結果を見い出そうとする。人類が群生している外部の観点から、「人類が」「人類は」「私は」との言葉を使う様子を眺めてみれば、まことに滑稽ですらあります。

 

他方、雑草一本一本にそれぞれ一つの命があるように、人間一人びとりにも唯一無二の命がある。群生していても必ず孤独がある。誰にも私の心を救うことはできないし、理解することは不可能だという確たる実感があります。社会で相対的に生きているのは浅瀬であり、深淵においては絶対的な孤独にある。

人間は、群生している俯瞰、客観と、ひとりぼっちの孤独による純粋主観を併せもち、その混沌から自然に生まれてくるものがある。そうした、本来最も大切にしなければならない心の魂の自然作業が、雑駁な社会情報やひと同士のかかわりによって疎かにされ、心と時間の深奥に押し込められてしまいます。

 

イギリスの精神科医であったアンソニー・ストー(1920-2001)の名著から、まずは孫引きになりますがモンテーニュの言葉を引用します。

 

私たちは、自分が専有し、全て自由に使うことのできる、

小さな人目につかない仕事場を確保しなければならない。

そこでは真の自由と、最も重要な隠遁と孤独を達成できる。

(アンソニー・ストー著 創元社 『孤独』 p36 )

 

モンテーニュは自由と隠遁と孤独を欲する。孤独への願望です。

孤独への願望の中には、人と接することの煩わしさや社会に群生することで不自由となる感性の鈍化を危険視する一面があると思います。

ここでストーは、同じく英国で精神科医であったドナルド・ウィニコット(1896-1971)の論文『独りでいられる能力』から以下の文章を引用します。(こちらも孫引きになります)

 

精神分析の文献においては、独りでいられる能力についてよりも、独りでいることの恐怖や独りでいたいという願望について書いた論文の方が多いと言ってもよいであろう。

またかなりの量の研究は、引きこもり(孤立)の状態、すなわち、迫害の予感を暗示する自己防衛態勢についてのものである。独りでいられる能力がもつ積極的な側面についての議論が既に始まっていなければならないと私には思われる。

(アンソニー・ストー著 創元社 『孤独』 p40 )

 

ウィニコットの著書は近年、子育ての参考書として数多く紹介されています。日本でも翻訳による出版がAmazonを賑わせていますので、ご存知のお母さんがたも多いでしょう。

孤立する恐怖心から独りでいたくない、帰宅して独りだとすぐにテレビのスイッチを入れて人の声のない不安心を解消しようとする、或いは、独りでは家事が満足にこなせず生活ができそうにないという負の一面から、無意識的に孤独を拒絶してしまう。

逆に、他人との接触が怖い、自分の心が傷つくという一面から、孤独を欲してしまう。

ウィニコットは、そのような恐怖や願望を動機とする孤独については研究されてきたが、独りでいられる能力については、何の議論もまだ始まっていないということを述べています。

 

同著の第二章『独りでいられる能力』はとても示唆に富んでいますが、ここではその中間部分を端折りまして、この章の最後の部分を引用します。

 

したがって、独りでいられる能力の発達は、脳がその最良の状態で機能するためにも、個人が最高の可能性を実現するためにも、必要なことであると思われる。

人間は容易に自分自身の最深部にある要求や感情から遊離してしまう。

学習、思考、革新、そして自分の内的世界との接触を維持すること、これらはすべて孤独によって促進されるのである。

(アンソニー・ストー著 創元社 『孤独』 p53 )

 

独りでいられる能力によって人間の可能性が広がることはよく理解できます。

それよりも私の目を引いたのは、「人間は容易に自分自身の最深部にある要求や感情から遊離してしまう」という言説です。じっくり自分と向き合ってみれば、なるほどそのとおりと腑に落ちる。

そこで何が起きているか。

心の最深部からの要求や感情をごまかすために、無意識的な自己欺瞞が起こっているのではないかと目星をつけたわけです。それは、自我の理性によって行使されている疑いが強い。人間は理性的であることに誇りや知の価値を見い出すプラスのほうばかりに目が向いてしまっており、理性によるマイナスについてはあまりに無自覚かつ無反省です。

最深部にある要求や感情はそのまま心の魂の叫びであって、自我の小さな理性によって魂の本来的欲求はいつまでたっても満たされない。むしろ自己欺瞞によって魂は穢れてしまう。

そうしたときに、孤独でいられる能力が効いてくるわけです。

自我の小さな理性から魂を解放する、自己欺瞞を内省することによって魂が浄化される。

それは、孤独におけるひとりぼっちの内的対話でしか成し得ないこと。

 

冒頭に述べた群生する人類の無常を非論理的に並置させてみます。

 

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。

私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。

しかもなおその私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。

(『志賀直哉全集第10巻』)

 

ナイルの一滴としての私。

孤独のカタルシス。