さようならの美しい響き


 

山の人モード

ひさしぶりの記事になります。

六月の一か月間は私にとって、いろいろとリセットする月であったようです。

 


 

体のリセットを行いました。5月末に75Kgあった体重を今朝の時点で67.6Kgまで落としました。20日の時点で6Kgダウン、これで十分かと思いましたが3年かけて肉付きをアップした腰の斜め後ろのぜい肉がどうしても取れず、あと2か月かけてウェストを締めようと思っています。

お酒も飲んでますし(特にジンが中心)、鶏肉、魚類、大豆類、チーズからタンパク質とカルシウムをしっかり採っていますし、野菜の量は普段の2倍くらい食べています。

その代わり、ご飯、パン、パスタ、イモ類等の炭水化物と、甘いもの(チョコレート等)を一切食べていません。あとは有酸素運動をやっているだけです。(最初は一日2万歩を目指し数日頑張りましたが、時間的に非効率なのでやめました)

身長が177cmなのでBMIは、23.94→21.58となって正常値になりました。

ちょっと75Kgというのはショックで(それまで体重計を避けていたのですが)、32インチのジーンズが20本近くあるのですがどれもこれも入らなくなっていて、しょうがない、オーバーオールが3着あるので普段はこれでごまかしていたのですが、そのオーバーオールでさえウェストが・・・(苦笑) 寝る時、横向きに寝ることが多いのですが、布団におなかが接触する…というだらしない状態をいつかはなんとかしよう!と思っていたのですが、ま、3年ぶりにベストコンディションの体が出来てきそうです。

 


 

先月の終わりから今月にかけての一か月間、野際陽子さんや小林麻央さんが癌のために、スポーツ界では西武ライオンズの森コーチが42歳という若さで突然死されました。身近なところでも突然亡くなられたかたがいらっしゃいました。

人は必ず死ぬさだめだと、生命は無常なものだと、そう私の理性が私の頭に語り掛けますが、心のなかの特に情の部分がどうしても納得したくないと言う。

なぜ人間の心とは、「理」ではどうにもならないのか、ここに一つの哲学があります。死は哲学の宝庫です。

この一か月余り、何度も悼みました。そして考え込んでしまいました。

 

人生に何度か訪れる大切な人との別れ。

日本人は「さようなら」と言って別れます。

「左様であるならば、」の略なのですが、では、このあいさつの次の言葉に何を呑み込んでいるのでしょうか。

もし私がスペインに移住したとして、その地で生命の終わりを迎えた場合、私の子どもたちにとって生きていても会うことのできない父と、死んでしまった父と、なにがどう異なるのだろうか。そこに「さようなら」はどう在るのでしょう。

 


 

小林秀雄は死の「予感」について次のように語っています。

 

己れの死を見る者はゐないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめてゐない人はないのであり、死の豫感(※予感)は、其處(※そこ)に、しつかりと根を下ろしてゐるからである。死は、私達の世界に、その痕跡しか殘さない。殘すや否や、別の世界に去るのだが、その痕跡たる獨特な性質には、誰の眼にも、見粉ひやうのないものがある。生きた肉體(※肉体)が屍體となる、この決定的な外物の變化(※変化)は、これを眺める者の心に、この人は死んだのだといふ言葉を、呼び覺(※覚)まさずにはゐない。死といふ事件は、何時の間にか、この言葉が聞える場所で、言葉とともに起つてゐるものだ。この内部の感覺は、望むだけ強くなる。愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれるだらう。この場合、この人を領してゐる死の観念は、明らかに、他人の死を確かめる事によつて完成したと言へよう。

(新潮社 小林秀雄著 『本居宣長』 p596)

 

我々は自分自身の死を知りません。自分の死をもってしても、自分の死は知りようが無いのです。生きているから何事も知ることが出来るのですね。

みずからの死について知っているのは、みずからの死の予感だけだと小林秀雄は言います。そのとおりだと同感します。

その予感は、どのようにして心に根差すのか。

これは、他人の死(もしくは他の生物の死)に立ち会うことでしか、予感という想像力が培われません。厳しい現実の物理的な変化をもって「ああ、この人は死んでしまった」と観念する。そこには、「さようであるならば、」・・・「いたしかたない」という諦めの理性と、現実を絶対に受け容れまいとする潜在意識の情と、茫然自失の空虚感、自分の届かなさの無力感が複雑に絡み合います。

そのすべてが「さようなら」の響きの美しさを支える。

 

小林は、「己れ自身が死んだ」とはっきり言えるほど、鋭い感じに襲われると述べています。そうして、自分の死の予感というイメージが確立されるのだと。

愛する他者の死を、自分の死として、想像ではなく(成り代わるのではなく)、直観として自分が死んだと感じられる、小林秀雄の豊饒な情緒的感性がよく現れている文章だと思います。

 

人それぞれの心の道に、それぞれの「さようなら」。

 

六月は死生観を考える哲学の月でした。

さあ、七月はどう成ってゆくのでしょうか。

一期一会を大切にしてゆきたいと改めて思いました。