わが道を独り行く


 

山の人モード

私がここで『希望』について書いているのは光の人格と言えると思うが、陽極には陰極、長所と短所が同じ位置に同居しているように、光には影がある。希望を力強く打ち出す自分の源泉には「どうせ失う命だから」というニヒリズムが基盤としてある。

このニヒリズムが逆転作用すると影の人格が発動し、「どうせ失う命だから、もうどうでもいいじゃないか」と投げやりとなって、光として急上昇した自分は一直線真っ逆さまに深淵の暗黒へ墜落していくのである。そのことが最近自覚できるようになってきた。

それゆえ、書いてアウトプットすることで、或いは誰かに熱く語ることで、影に落ちない自動調節を無意識が行っているようだ。影は睡眠中にもわっと立ち上がっているのかもしれない。目覚めは陰のニヒリズムが心に漂っていることが多い。

毎日、なんらかの刺激を自分に与え、陽のニヒリズムのVolumeを上げていこう。

 

エルンスト・ブロッホ(哲学者 1885-1977) の『希望の原理』という大著を読み始めている。彼は「希望を学ぶ」ことが大切だという。以下、引用する。

希望がやる仕事はあきらめることがない。希望は、挫折にではなく、成功にほれ込んでいるのである。希望は、恐怖よりも上位にあって、恐怖のように受け身でもなければ、ましてや虚無に閉じ込められることもない。希望という情動は自分の外に出ていって、人間を、せばめるどころか、広々とひろげていき、内側で人間を目指す方向に向けさせるものが何なのか、外側で人間と同盟してくれるものが何であるのかについて知ろうとして、飽くことがない。

 

ニヒリズムとは虚無感のことであり、その虚無に閉じ込められるとき「もうどうでもいいじゃないか」という投げやりな心が発動する。彼が述べているとおり、希望は受け身ではなく自ら積極的に生成するものであり、未来の可能性(成功)にほれ込み、予想されるリスク(失敗)に対し「それでもよし」という覚悟のもと、勇気によって実践される。その実践は希望がある限りあきらめることはない。

内省的に希望を考えたときには、いったい希望とは何であるのか知的欲求が首をもたげ哲学になってくる。「外側で人間と同盟してくれるものが何であるのか」という言説についてはもう少し考えてみることにする。

彼は以下のように続ける。

この情動の仕事は、生成するもの ― 人間自身もそれに属している ー のなかにとびこんで働く人間を求めている。

存在するもの、見るもあわれな型にはまった、お定まりの、不透明な、存在するもののなかにただ受け身に投げ込まれているだけの、犬のような生活には、この仕事はとても耐えられない。生の不安と恐怖の策動に抗するこの仕事は、それらの元凶、大部分ははっきりそれと示すことのできる元凶どもに抵抗する仕事であり、この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする。それはたしかに見つかるのだから。

 

まったく同感でブロッホとはウマが合いそうだ。(もう亡くなっているけど)

これを読んで、「そうは言っても」とか、「なにを暑苦しいことを」とか、もしかするとそのような日本人が今は多いのではないかとも思いますが、同じ耳をもつ人もいるのではないかと期待しています。

元凶、元凶どもは自分の心の中にある別のキャラクターなのだと思います。外の元凶など大したものではない。

誰になんと言われようと、白い目で見られようと、そんなものはまったく無関係でありまして、死んでゆくのはひとりきり、自分が何のために生きたのかという責任を、誰もとってはくれません。

 

どうせ失う命なのだから、燃え尽きるまで大いに燃やす。