センチメンタル


 

黄昏人モード

感情は抑えることが善なのか、感情を抑えないことは悪なのか。

人間は理性的な動物だとして、理性で感情を全面的にコントロールすることが良いことだとする近代の価値観は、科学の発展によって急速に進むロボット化社会を想定したとき、感情価値の見直しを迫られることになると思います。いやもうすでに「心」に焦点をあてた活動が、さまざまな形で動きは始めています。

感情にもいろいろありますよね。驚きや喜び、楽しみは良い感情だとされ、怒りや悲しみ、憎しみは悪い感情とされています。一方、古代インド哲学では、喜びを含めたすべての感情が執着心の源だとして断ち切ることを善しとしており、それは仏教に継承されています。(日本の仏教は改造されましたが)

そもそも論で、善と悪の価値を相対させラベルを貼っていったのは人類であって、最初からあった自然界の絶対的価値とは違います。ここに踏み込むと哲学論になりますので今日は立ち入りません。

 

悲しみは負の感情だとされているのですが、怒りや憎しみなどと違って他人や社会に対してそれほど悪影響を与えるものではないと思うのです。閉じた自分のなかでの辛さ、苦悩ですよね。

今日とりあげたいのは酷な悲しみではなく、淡い悲しみと言いますか、黄昏(たそがれ)るセンチメンタリズムです。

感傷と訳されるセンチメントですが、英語のセンチメントには情操なども含まれますし少し違ってるようです。英語の語義は横に置き、日本語のセンチメンタル=感傷的な気持ちについて考えてみるのですが、あまり良い意味には定義されていません。「理性的に身を処しないで感傷に溺れる態度(大辞林)」。ここでも理性的が善とされています。

センチメンタルにはナルシシズムが同居していますよね。なのでナルシシズムもテーマに加わってくるのですが、一般社会の常識的と言われる価値観に囚われずに自分のこととして考えてみれば、センチメンタリズムもナルシシズムも自分の心を豊かに、心の傷を癒し潤いを与えてくれる、よきものだと思うのです。

 

話は変わりますが、日没の光景はなぜセンチメンタルになるのでしょうか。

たくさんの子どもたちが遊びまわった小学校の校庭の下校時、かつては多くの乗客で賑わった駅のプラットホームが今ではすっかり寂れてしまっている光景。何を言いたいかはもうお分かりになると思いますが、明の光景と暗の光景の対比を心の無意識下で行ったことによる感傷ではないのだろうかと。どう思いますか?

これから私はセンチメンタルに限らず『哀感』というテーマにスポットを当てていこうと思っています。日常の機会をみつけ哀感の心をつくり、哀感を昇華させてゆくようなイメージ、心潤う表現として、大げさかもしれないが、「哀感が人と世界を救う」こともできるんじゃないかと、なんかそんなふうに直観しているのですが。

 

実は、sentimental 絡みのドメインを元旦に確保しまして、感傷を、間接的に希望を生み出すものとして、なんらかの形で事業化(プロジェクト化)したいと、いや必ずするのだと決意しています。今年20立ち上げるプロジェクトの一つとして。営利事業で厳しいのなら非営利でも良いし、少なくとも新しい価値創造のきっかけにはなると思います。

何も決まっておらず、何の考えも今のところないのですが、直感として出来ると感じたのでチャレンジします。