おのずからは心を尽くすことを求める


 

桜の人モード

今日は昨記事のつづきです。「おのずから」について、相良亨(倫理学者 1921-2000)の著書『日本人論』より引用しつつ考察してまいります。

「おのずから」は、日本人の形而上にかかわる思惟の根底にあるものとして、さらに、本格的に考察されなければならない問題である。

相良は私のような心理分析からのアプローチからではなく、「おのずから形而上学」と「日本人の自然観」を区別しつつも、「自然観」からのアプローチによって「おのずから」の説明を試みています。正攻法だと思います。

元来日本人は大自然のことを、「天地」「万有」「森羅万象」「造化」などの言葉を使って表現してきた。それが明治三十年代から「自然」と呼ばれるようになったそうです。山川草木のことを私たちは「自然」と呼びますが、動作・運動としての「自然に」「自然な」という形容表現は「おのずから」で表すこともできる。

東京大学で彼の師であった和辻哲郎(哲学者 1889-1960)の言葉 『日本における究極者は不定である、否、不定そのものである』 を引きつつ次のように述べます。

究極的なものが不定そのものであったから、運動と、運動において生々する物に、究極性がその背景として内包されてきて、いわゆる宗教的自然観を形成するのである。究極なるものは、万物において、その万物の背後のものとしてのみ捉えられるのである。

明治三十年代の出来事が伝統的自然観を反映するものであるとすれば、われわれの伝統的自然観は、まさに無限定な究極的なものの「おのずから」においてあるものということになる。自然をわれわれはそのようなものとして捉えてきたことになる。

少々難解ですが、日本人において世界(宇宙)のすべて=大自然の究極は無限定であり、常に形状を定めず不定である。その無限定で究極的なものが「おのずから」運動して「自然」となっているとし、さらに、無限定で究極的なもの=「おのずから」それ自体だと言うわけです。「おのずから」が、おのずから運動しているということを述べています。

ちょっともう少しイメージ化しないと私には掴みきれていない。

今日はここまでにして、彼の次の言葉で締めましょう。

 

「おのずから」に生きることは、「おのずから」の者として、自己の最も根源において生きることであり、それは「心を尽くす」ことを求める。

 

いい言葉でしょう?

日本人の真骨頂です。
自我が「おのずから」を完全に信頼しきらないとこうはなりません。

大自然そのものである自分の根源に一切の疑いをもたず、最も根源において生きるためには心を尽くすことが求められる。そのとおりだと思います。