内在するものと共鳴するもの


 

山の人モード

右を見ても左を向いてもテクノロジーの時代。

物議をかもした「人文系学部は役に立たない」系の政府発言。
これは理数・物理・化学・医学・工学系と比較して経済に繋がりづらいことからくる、現安倍政権・政府の国家観であると思う。或いは社会思想か。

一理は認める。
ただし現代の今がテクノロジーの時代だからという条件を付けさせてもらう。

 

合理性は万能か、人間の理性は万能か。であれば先のアメリカ大統領選で、ヒラリー・クリントン候補はトランプ候補に圧勝したに違いない。

エリートで立派な人のお手本であるはずの文科省高級官僚が、なぜあっせんによって天下りするのか。科学的数値で安全性が証明されても、豊洲市場の生鮮を食べるのが嫌だという都民がなぜいるのか。

人間とはまことに非合理かつ、理性で欲求を制御しきれない動物であり、科学は信じるか信じないかの点で人間にとって宗教と同じである。

 

テクノロジーの発展はそれはそれで素晴らしく文句のつけようがない。

こうして私は今、テクノロジーを利用して文章を書き、インターネットを使い、ウェブサイトに記事投稿しようとしている。すべてテクノロジーのなせるわざだ。

しかし、テクノロジーは私の外部にしかない。今更あたりまえなのだが、テクノロジーは私にとって道具でしかない。情報をインプット・アウトプットする道具だ。移動するための乗り物の道具だ。

私の頭の中にも心の中にも、テクノロジーは一切ない。

 

音楽を聴きながら書を読む。音楽を奏でているのはステレオで、本もそうだが、それ自体はモノであって道具に他ならない。
けれどもなぜか心が動かされる。

それは、芸術や文学が、私の内にあるからだ。

私の心の中にある芸術や文学が、ステレオや本を通じてインプットされる外部の芸術や文学と、共鳴するのだ。

 

ほとんどの歴史家が述べているとおり、人間の内的価値を創りだしてきたのはいつの時代も人文・芸術系だった。

哲学であり、思想であり、文学であり、美術や音楽などの芸術であった。

テクノロジーはエモーションを創らない。

 

大自然もまた、私の内にあって、外の大自然と共鳴する。