トップダウンを捨てる未来の民主主義


 

谷の人モード

まず始めに「大衆」のことを考えてみたい。

私たちが「大衆」という言葉を用いるとき、それは国民の集合体なのか、マジョリティーなのか、ふつうの一般市民なのか、愚民の意味を孕んだものとして若干の侮蔑の意を込めるのかなどについて、自分なりに色を付けて解釈していると思います。

書き手の文脈にも、読み手の文脈にも左右されるのですが、今日は、政治家(行政指導者の長)だけを除き、自分自身をも含めた一般市民を大衆と呼ぶことにします。

 

現代日本の政治は愚かな大衆迎合政治。

民主主義とは単なるポピュリズムなのか。

 

興味深い一文を発見したので引用する。

一人の人間が矛盾のかたまりである以上、大衆もまた矛盾の存在であって、〈大愚〉と〈大賢〉の両要素を合わせもつ。

従って「大衆の側に立つ」ということばのアヤに寛容であってはならない。

大衆の内部にある〈大賢〉の要素をつちかう努力だけが大衆の側に立っている。いかに大衆の喝采を浴びようとも、その〈大愚〉の要素に媚びたり、それを助長している行動は大衆を大衆の敵に売り渡している。

(むのたけじ著『詞集たいまつ』)

「大衆の側に立つ」とは、トランプ大統領のいう「アメリカファースト」であり、小池都知事のいう「都民ファースト」である。なんとも美しい響きを持つ「ファースト」という言葉であるが、これは大衆が〈大賢〉または〈大愚ではない〉ことを前提としている。

もし大衆が〈大愚〉の要求をし指導者が大衆ファーストを推進すれば、指導者は大衆から拍手喝さいを浴びることと引き換えに、「大衆を大衆の敵に売り渡している」とむのたけじは言うのである。

ここでの「大衆の敵」とは権力だろうか。むのたけじは反権力に生きた人であるから、おそらくそうだと思う。

私は文意を飛躍させて、未来の大衆を不幸にしてしまう〈大愚〉の判断を現代の大衆が要求し、指導者が大衆におもねることによって誤った判断を下してしまうということと理解したい。

ポピュリズムや大衆政治という言葉が使われるときには、たいていその愚かさを批判することが多いけれども、大衆には「大賢」もあることを忘れてはならない。いやむしろ「賢」がほとんどで「愚」はわずかなのかもしれない。〈大愚〉がただ大きく目立つだけで。

上記引用文の、「大衆の喝采を浴びようとも」を、「大衆の非難を浴びようとも」に替えてみたらどうか。はたして「大衆の非難を浴びようとも」、大衆の「大愚」の要求をぴしゃりと撥ねつけることのできる政治家はいるのだろうか。

 

このことは、一個人の内面にも同じことが言えると思う。

大賢と大愚を併せ持つ自分が、大賢の要素をつちかうことに努力しているときにこそ、「(本来の)自分の側」に立っている。

大賢をどのように価値判断すればよいのかは難しい。

ひとつ考えられる方法として、2000年前の価値でも大賢の価値であったかどうか、2000年後でも大賢の価値であるかどうかを判断基準として想定してみてはどうだろうか。大愚もまたしかり。

 

民主主義がもし成功するとすれば、大衆の自己批判と、自分は大愚ではないかどうかを吟味する姿勢が必要不可欠だと思います。そうして初めて、大衆の中から有能な政治家が出現するのではないでしょうか。

政治家や指導者から大衆へのトップダウンスタイルは、政治だけではなく、企業を含めたあらゆる組織においてもはや通用しなくなってきている。トップダウンによる未来のリスクの大きさに一部の人たちは気づき始めている。未来永劫、古いスタイルはもう戻ってこないと思うべきです。

私たちは、新しいスタイルの民主主義の扉を開く歴史的地点に、今立っている。