自己責任と偶然性


 

光の人モード

2002年にアメリカ主導によって始まったイラク戦争。2004年に日本人が人質となって解放されたり殺害されたりしたことがあった。

あのとき、日本政府は退避勧告を発令しイラク周辺国への入国を禁止した。にもかかわらず留まったり入国したということで、人質となった日本人に対し、日本社会の世論は自己責任論でバッシングした。私も当時は、無謀な活動をする人たちは自己責任なのだから、救出しなくていいと考えていた。

 

雪山登山での遭難の際にも、自己責任論が巻き起こる。

或いはごく身近で、例えば肝臓を悪くして医師から飲酒を止められているにもかかわらず、飲酒し肝臓がんや肝硬変となって死んでしまう人に、それは自業自得だと突き放す。

この自己責任論、自業自得論は、原因と結果が必然性によって結び付けられてる。

因果応報、善因善果、悪因悪果は仏教の教説にあり、インド哲学も西洋哲学も必然性によって論理を展開する。また宗教も必然性によって物語を創る。

運命の赤い糸も仏教の縁も必然である。

 

 

当事者個人として、人質になったり雪山で遭難した時に、飲酒で肝硬変になった時に、「ああ自業自得だから仕方がない」と思うのは当然だと思う。「政府や社会、家族は私を助けるべき。救うべき。」というふうに思う人は甘えているし思いあがっていると今でもそう考える。

けれど、当事者がどう思うかは別として、自己責任でも自業自得であっても、手を差し伸べてあげるべきではないかと、最近はそう考えるようになった。ただ、あまりに依存を当然のこととして反省も感謝もなく、何度も繰り返すような人は別として。

確かに因果関係によって不幸が必然的に起こったのかもしれない。

けれど、100%の必然だろうか。

過去に起こったことについて、必然だと考える癖がついてしまっているのではないだろうか。

もし原因と結果を完全に分断し細切れにしたらどうだろう。一つ一つの経過はすべて偶然のつながりによって成り立っていると言うこともできる。過去の因果関係がわからずに、目の前で途方に暮れている人、死にかけている人がいれば助けようと思うでしょう。

 

明確な答は出ておらず、考えています。

ただ少なくとも家族・親族にかんして、「だから言ったこっちゃない」「何度も注意したのに強情を張ってやったのだから自己責任」「自業自得」というふうに突き放すのは一切やめようと、去年あたりからそう考えるようになりました。

一切、匙(さじ)を投げない。

 


 

仏教のお寺で手を合わせて拝むのは因果です。感謝もそうですし。

けれど神社で手を合わせて拝むときには、良いことがありますようにだとか、家族が健康でありますように(病気や事故に遭いませんように)だとか、よく考えてみると偶然の願掛けをすることが多くないですか。

お正月などでは神社でおみくじを引きますよね。大吉が出たとか凶が出たとかで偶然を楽しんでいるわけです。

日本人って、未来に対し偶然性を自然に、無意識的に介入させている不思議な民族ではないのだろうか。

運命は決定している(自分が知らないだけで)、なにごとも必然、因果応報というふうに考えて生きるよりも、自分が生まれたのも偶然、明日起こることも偶然がほとんど、出会いも偶然というふうに考えたほうが、驚くことも笑えることも多くなるし(もっとも悲しむことも多くなりそうですが)、彩り豊かな人生を楽しめるのではないかと私は思います。

 

未来をみるときには、偶然性を希望の光としてもいいじゃないですか。

 

 

コメントを残す