美しさを看(み)て、心が観(み)る


今年の3月は6年ぶりに寒い日が続きました。桜の木はそんなことなど意に介せず、花をつけていきます。

日本人は、春の桜にさまざまな心情を重ねます。美しさを感じとる感性が歓ぶ。そこから一歩踏み込んで情を混入する。わが身と重ね合わせることもある。しみじみとしてくる。

風情。情趣。

 

いま桜 さきぬと見えて うすぐもり 春に霞める 世のけしきかな

 

この歌は式子内親王が詠んだ名歌で、春の到来と桜の美しさ、そこから霞み観る世の中の全体感を素直に表現しています。

式子内親王だから、というのはあるんじゃないのかなと、そんなふうに少し思いました。

 

別の観点からもうひとつ。

江戸後期の儒学の大家、佐藤一斎の『言志四録』より引用します。

 

月を看(み)るは、清気を観(み)るなり。

円缺晴翳(えんけつせいえい)の間に在らず。

花を看るは、生意を観るなり。

紅紫香臭(こうしこうしゅう)の外に存す。

(講談社版 佐藤一斎著『言志四録』)

 

直観に敏なるかたには「看る」と「観る」の違いで一目瞭然だとは思いますが。

月を見て満ちた欠けただとか雲の陰に隠れただとか、そうした表層の美しさだけを楽しむのではなく、月とともに流れる空気と時間、一瞬に張りつめたものから悠然と流れるものまで、その全体感に「清気」を感じとる。

花を見るときには色や香りに注目するのではなく、その花が今まさに生きている、生きようとしていること、花にわたしたちと同じ「生意」を感じとる。

生きる力とはなにか。生きる欲とはなにか。

頭で意味を考えるのではなく、心が観る。

 

みごとに咲き、みごとに散った後、みごとに忘れ去られる。

 

 

 

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