理性的を凌駕する感情的


 

水の人モード

感情的は理性的よりも劣るというのが現代社会一般の評価のようです。理性によって感情をコントロールせよと。

アメリカから輸入されてきたアンガーマネジメントという、怒りの感情を理論武装によってコントロールするコンサルティングが流行になっていた時期もありました。あれはどうなったんだろう?

欧米の感情に対する考えかたは、理性によって制御して表面に出さないこと、自我によってコントロールすべきというものが主流だと思います。現代日本人も欧米流に親しんできました。かくいう私も20代の頃はそうした考えの啓発書を読み、ふむふむと納得していた。

けれども、年齢を重ねるにつれて何だか違うんじゃないか、おかしいぞと気づき始めてきた。それが40代の頃ですね。

 

論理や理屈、合理性に基づいて現実対処していく西洋。

一方、日本や中国では、心根、心魂といった根本的なところを宗教を使わずに修養していくことで、良い感情が出るようにするという文化が根付いていました。「できた人間になる」。

安岡先生は次のように述べています。

 

非常にできた人が怒ったというのはいいものです。

また泣いたというのもいいものです。

つまらぬ人間が怒るといかにも見苦しい。

信用のないものが泣くとこれはまた情けない。

同じ喜怒哀楽でもやっぱり人物によってみな違います。

(中略)

人物ができてくると、「咳唾(かいだ)みな珠(たま)なり」といって何でもいいものです。

(安岡正篤著『呻吟語を読む』 致知出版社 p132-133)

 

「咳唾(かいだ)みな珠(たま)なり」というのは、咳(せき)や唾(つば)に至るまで口からでるものはすべて珠玉の価値があるという意味です。「謦咳(けいがい)に接する」なんていう言葉もありますね。立派な人の咳払いを直に聞けるだけで素晴らしい体験となる。

この前後の文章で文脈的に使われている「怒り」は、冷静で理性的な「叱り」ではありません。感情的になって「怒る」なかには、珠玉の価値があるものもある。しかしそうなるためには、よほど人間ができてこないとならないということを述べています。

この書では、「涵養」という言葉が多用されています。

いくつかの辞書で調べてみると、「水がしみこむように、ごく自然に、徐々に養い育てること」という意味でした。自己研鑽や自己修養をごく自然に、時間をかけて行ってゆくことだと思います。心魂を涵養してゆく。西洋方式と違い非効率で長い時間がかかる。しかしそれだけに、老いたときには個人差が大きくなる。

 

日本人には特に、「かなしみ」という情によって、心魂を涵養してきた文化があります。

「怒り」においては義憤によって使命感をもち、志して立ちあがった偉人が何人もいます。

理性的を凌駕する素晴らしい感情的が在る、ということを主張しておきたかったのでした。

涵養は自分自身にとって大きなテーマです。