地球論から「公」と「私」を連想する


地球は太陽の周囲を公転している。その太陽を中心とした太陽系は銀河系(天の川銀河)の内部で公転している。

私たち人類は地球を構成する生物の一種として、地球の肌にはりつき生死を循環させている皮膚細胞の「微小な存在のごく一部」のようなもの。73億人の人類種が消えても地球は何も困らない。ジェームズ・ラブロックが『ガイア理論』で「地球は生きている」とぶちあげた時、科学者たちからトンデモ論として扱われた。それが今では地球システム論というふうに名を変え定論となった。

ラブロックは、「人類という疫病」というタイトルで次のように述べている。

 

私たちヒトという種は、完全に自立した自由な個体として生きているのでもなく、ミツバチにように完璧に統合された社会的動物でもない。私たち人間は部族として生活しているのだが、残念なことにその部族としてのふるまいは個人の道徳水準にはるか及ばないのが通常である。私たち個々人がいくら知性的であっても、社会的集団としては無作法で無知なのだ。人間同士が仲よく暮らすこともままならず、地球とも調和して生きていけないのは、このアンバランスのゆえだと私は思う。実際行動を起こす力のなさと、その行動の方針を定める知性の薄弱さ、このギャップが大きいのである。(ガイアブックス版 ジェームズ・ラブロック著『ガイア 地球は生きている』)

 

73億人にまで急増した人類は、地球にとって癌細胞なのだろうか。
そんなたいそうなものでなく、軽度な皮膚炎の原因程度ではなかろうか。

私たち一人の人間の体は37兆とも60兆とも言われる膨大な数の細胞でつくられている。この細胞たちは、私たちの体を常に「定型」にするようにバランスされ、例えば体のどこかが変形したり傷をおったときには、元の形に戻そうと勝手にはたらき始める。

地球を「公」、人類を「私」としてとらえる感性は、人を「公」、全身細胞を「私」としてとらえる感性に重なる。ここにハンナ・アーレントをマッチングさせれば、会社を「公」、労働者を「私」とする仕組みに連想が及ぶ。また、カール・グスタフ・ユングをマッチングさせれば、全体人格を「公」、多人格性のそれぞれを「私」とすることに連想が及ぶ。

こうした観点から世界をとらえる感性は、「公」と「私」の関係性、「私」と「私」の関係性において、哲学の「なぜ存在しているのか」という存在論の原理に、ある示唆を与えてくれる。(後日、論考がまとまったら書きます。今はイメージで思考しているだけで言語化できない)

そこには「人類になぜ希望が必要なのか」というテーマ、エルンスト・ブロッホ『希望の原理』の哲学論に通底するものがある。

私が今日目を通した本は、ラブロック、アーレント、ブロッホ、少年ジャンプ、iphoneの説明書の五冊。それぞれが別の「私」に取り込まれ、それらが結びついて「公」の一人間としての人格を構成している、と言える。このとき、興味深いのは「私」と「私」の関係性である。

 

 

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