タイトルと副題


Also Sprach Zarathustra

Ein Buch für Alle und Keinen

(1883-1885)

Friedrich Nietzsche


 

 


1.翻訳書別タイトルと副題


 

≪英訳≫

Thus Spoke Zarathustra

A Book for All and None

 

≪薗田宗人訳 白水社版≫

ツァラトゥストラはこう語った

万人向けの、しかし何びとに向けられたのでもない書

 

≪吉沢伝三郎訳 ちくま学芸文庫版≫

このようにツァラトゥストラは語った

万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書

 

≪手塚富雄訳 中公クラシックス版≫

ツァラトゥストラ

万人に与える書、何びとにも与えぬ書

 

≪氷上英廣訳 岩波文庫版≫

ツァラトゥストラはこう言った

だれでも読めるが、だれにも読めない書物

 

≪竹山道雄訳 新潮文庫版≫

ツァラトゥストラかく語りき

(副題訳なし)

 

≪小山修一訳 鳥影社版≫

ツァラトゥストラ

万人のための一書なれど 真に読み解く人なからむ

 

 


2.翻訳書について


 

上記でご紹介した翻訳を見ればわかるとおり、訳者それぞれの印象が異なります。ということは、本文の翻訳も、訳者の意訳が混入されてしまっているのです。

しかもニーチェは文章のリズムやイメージを体験せよと言っているので、ドイツ語が解るだけではなく、微妙なニュアンスやドイツ語のリズム、ドイツ人の感性までをもイメージできなければなりません。そんなことは現代日本人のほとんどには到底無理な話でありまして、おそらく翻訳者においてもそうだと思います。

ヨーロッパの、ドイツ・スイス・オーストリア・ベネルクス三国・フランスなどの地域で生まれ育つか、20年くらい定住して暮らさなければドイツ語の細かい理解は難しいでしょう。19世紀とは時代感覚も異なると思います。特にこの書には詩文が幾つも出て来ます。詩には、その国の人でなければわからないリズムや感性的、文化的なものがあります。なかなか厳しい面がありますね。

私は自分ができる範囲で最善を尽くすために、表現の解釈で迷った部分は上に挙げた6種類の和訳本を比較し、特に英訳本の助けを借りました。本来であれば独独辞典と独日辞典を片手に頑張れば良いのでしょうけれど、本格的な研究家でもありませんし、また研究に耐えられる性格でもないので、そのための時間と労力を割くことが今のところできていません。

『ツァラトゥストラの序説』を含め『三段の変化』などの各章タイトルは、私の所有している原著にありません。ニーチェ以外の編集者の手によって章タイトルが付与された可能性があり、他のドイツ語原典にさえ、本によってさまざまな章タイトルの表現があります。

 

 


3.副題について


 

副題については、≪英訳≫がシンプルで解りやすいと思います。

A Book for All and None

「すべての人のためであり、誰のためでもない書」 です。

お副題についてニーチェが意図するところは、著書『この人を見よ』に次のような記述が残されているので参考になるかと思います。この書はニーチェが発狂する数週間前に書かれた最後の書であり、長い年月にわたって体を壊した彼の、おそらく薬の副作用かと思われますが、かなり“ハイ(躁)”の状態で記述された部分が多い書であると思います。ニーチェの健康状態がそうあったこともお含みください。

 

そのうちいつか、私の生き方や私の教え方を実践し、教育するような公共機関を設けることが必要となるであろう。そのときにはまた、『ツァラトゥストラ』の解釈のための特別講座が設けられることさえ起こり得るかもしれない。

けれども、私の述べた数々の真理を現在早くも聞く耳があり、受け取る手があるなどと、もしも私が期待しているとしたら、それは私が今まで述べて来たことに対する完全な矛盾といえるだろう。

今日誰も私の言を聞かず、私から教えを受けるすべを知らないのは、無理もないことだというだけにとどまらず、むしろ至極当然なことだとさえ私には思われる。

(西尾幹二訳 新潮文庫版『この人を見よ』p82-83)

 

ニーチェが意図的に読者を選んでいることは間違いありません。同じ境地に立ち、『ツァトゥストラ』を体験しなければ、本格的な理解ができないようにニーチェは書きました。

「いずれ理解する人が出てきて、すべての人にこの本の、本当に意図することがわかる時代が来るに違いない。今は誰にも理解できないだろう。いや待てよ、もしかしたら永遠に誰にも理解できないかもしれない。」 という思いをこの本にしたためて、für Alle und Keinen(for All and None) と副題に記したという解釈が可能だと思います。

また、この書を全体としてツァラトゥストラの内的価値観の破壊と創造と捉え、Keinen(None) の意味につなげる解釈もできる。物語のなかで展開される他者批判や価値批判はすべてツァラトゥストラの自己批判という捉えかたです。もともとニーチェには(安っぽい)啓蒙心は無かったようにも思います。

 

 


4.読者を選ぶニーチェ


 

あらゆる深淵な思想家は、誤解されることよりも理解されることを恐れる。

前者に悩むのは、おそらく彼の虚栄心であろう。しかし後者に悩むのは、彼の心、彼の同情であって、それはつねにこう言うのである。

「ああ、なぜ君たちも私と同じく、それをそんなに重大に考えようとするのだ?」

(吉村博次訳 白水社版ニーチェ全集『善悪の彼岸』290番 p329)