Ⅲ 読書へのスタンス


目的なき読書


 

私が本と接するときには、知識を増やそうだとか、教養を身につけようだとか、自分にとって役立てようだとか、悩みや短所を克服しようだとか、そうした向学心(向上心)、目的性、功利性は何もありません。

 

また、哲学書を読むにしても研究的ではありません。

私の本はとても綺麗です。自筆で書き込みするなどもってのほかで、折り目を入れることも付箋を貼ることも私にとってはご法度です。とにかく、本の中身は綺麗でなくてはならない。装丁が悪いとか紙の質が良くない、印字が雑などの本はそれだけで読む気が失せていきます。

離れて眺めて、その本の“すがた”に著者の背中を見ます。

 

波長の合う哲学者や思想家、碩学の書を読み、心の中で彼らと対話をする。私にとって波長が合うというのは、既に自分の中に芽吹いている哲学や信条を、より伸ばしてくれそうな哲学者や碩学です。文字を読むのではなく、文章を声に変換して「聴き」ます。

読書方法にしても目的的ではなく、気の向いたときに気の向いた本の、適当なページを開くというスタイルをとっており、一冊の本の読了は目指しません(小説以外は)。5冊~10冊の本を同時進行で読んでいくタイプです。おそらく、内容を理解しようとしていないのだと思います。頭で理解することに本能的に意義を感じない体質なのでしょう。

 

長い年月にわたって、何度も同じ書の同じ部分を注意深く読み直します。身体と精神の健康に合わせて、無意識が食べたい本を選んでいるような感じかな。

結果的には私の人生観にさまざまな影響を与えていると思います。

本を読んだ後に、或いは読んでいる最中に、自分が経験した人生に連想がおよび、その時に初めて知識や智恵が血肉化しているような感覚をもっています。

 

最後に、安岡先生の読書に対する姿勢の金言をご紹介します。

 

本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むと言っても、そうかそうかと本から始終受ける読み方です。これは読むのではなくて、読まれるのです。書物が主体で、自分が受け身になっている。

(中略)

上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。しかしこれだけではまだ受け身で、積極的意味において自分というものの力がない。そういう疑問に逢着して、自分で考え、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。

虎関禅師は、「古教照心、心照古教」と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる。深い力のある言葉です。

自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

(中略)

それによって得るところは自分の生きた所得になる、生きた獲物、生きた知識になる。知識にも色々あって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。

しかし心照古教にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にならない。受け身になって、機械的に受け取った吸取紙的知識では、本当にこれはなんの力にもならない。

(安岡正篤 『活学としての東洋思想』 PHP文庫 p24-25)