哲学と哲学学


哲学と哲学学


 

「哲学する」とは、どういうことか

哲学の本質は「原理を考える」そのものの動詞的活動状態を指します。そうして哲学をした結果、論文などに表現したものを、私たちは名詞形の哲学と呼びます。例えばカントの哲学だとかニーチェの哲学だとか。その名詞的な哲学文献の研究を私は哲学学として分けています。哲学学は原理を考えるのではなく、先人が表現した哲学を解釈したり研究したり説明したりします。つまり、過去現在を問わず哲学者と呼ばれる人たちも、哲学者と哲学学者に分けることができます。多くは哲学学者であり、哲学者はごく少数だろうというのが私の見立てです。

さて、「哲学」と聞くと、触れたことのないかたにとっては「難しい学問なのだろうなあ」と思うのではないでしょうか。実際、西洋哲学文献の研究は、日常使われている言語とは違った哲学用語を、たんなる意味だけでなくイメージとしても覚えなくては進みません。私も例外ではなく、そういうことが面倒で40才頃までは哲学に無縁でした。

しかし徐々に西洋哲学に接してみて解ったことがあった。哲学を超簡潔に言うのならば、冒頭に書いたとおり「原理を解明するために考えること」という、実にシンプルな知的行為だということに気づいたのです。先人の哲学文献を解釈し研究するために難しくしているのは、言語とその使用表現にあることがほとんどです。図解で解説してもらえばカントもハイデガーも解りやすかろうと思うんですが、それをすべて言語でやろうとするのが哲学者の表現なんですよねえ。彼らは読む人のために書いたのではなく、自分の議論を自己完結的に、いわば読者を無視して書いているんですね。

そのあたり、読者の私にとっては、読者におもねらない執筆者の態度がとても心地よいです。彼らは潔い。自分独自の哲学を著述する人は、こうでなくっちゃって思います。現代では、読まれるために書いている人がほとんどですからねえ。

 

哲学用語はなぜ難解なのか

ところで、哲学者がなぜ難しい哲学用語を使うのかと言えば、一般に使用されている言語を使った場合、その哲学概念を表現・説明するのに長い文章を書かなくてはならないから、という理解が一般的だと思います。そうでなくても長々した哲学文章が更に長大となって面倒になってしまうために、演繹だとか、形而上、実存、ア・プリオリ、表象、物自体、現存在などの概念言語を哲学者が創作したわけです。

難解な概念言語だらけの哲学文献を研究するのではなく、哲学的に探究する、いわゆる「哲学する」のであれば、哲学用語をまったく使用せずに、一般の言語で100%可能です。実は哲学者として最も優秀なのは、簡単な本質的なことに疑問を抱き「なぜ?」を繰り返す子どもたちでしょう。

一方でみずからが哲学をするために、その方法の一つとして哲学文献(先人の哲学論)から学び参考にするのは合理的です。知見を借りられますからね。自分では気づかない可能性を含め、効率的です。もちろん哲学文献に一切接しないで哲学することこそが、純粋無垢な哲学であることは言うまでもありません。

 

哲学学を哲学の手段に

私は独自の哲学理論を創造する目的のために、一定レベルの効率性を選択しています。生きる時間はそれほど長くないし。ある程度は、先人の哲学を参考に学んでいます。哲学学を手段にするということです。

ここでは、古今東西の個別の哲学について哲学学していこうと思う。中国や日本のそれを外した理由は、哲学というよりも思想的色合いが濃いためです。特に人間をテーマにした儒教思想と国学については別ページで学問します。

 

哲学と思想の振り分け

なお、私は哲学と思想についても明確に切り分けます。哲学は良い悪いや善悪価値の彼岸に立つ無色透明の理知によって接する態度が必要不可欠であり、少しでも何らかの価値判断上での優劣に言及していれば思想に振り分けます。例えばカントの『純粋理性批判』は哲学とし、『実践理性批判』と『判断力批判』は思想とします。ニーチェの代表的哲学テーマの一つである「超人」は思想に、「永遠回帰」は哲学に振り分けます。

哲学と哲学学を明確に切り分け、哲学と思想を明確に切り分ける理由は、そのほうが、より本質に迫ることが可能になると判断しているからです。

思想という概念については、別ページでつまびらかにします。

 

〈目次〉

    1. 古代ギリシアの哲学
    2. ドイツの哲学
    3. ニーチェの哲学
    4. 西洋哲学エトセトラ
    5. インドの哲学
    6. 余談/ニーチェとの出会い

 

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