余談:ニーチェとの出会い


余談:ニーチェとの出会い


 

ニーチェとの出会い

ニーチェとの出会いについての余談です。

インターネットのとある掲示板で知り合ったかたが、ニーチェ哲学のことをいろいろ書いていまして、ちんぷんかんぷんながらも読んでいたんですね。行きがかり上ですが(苦笑)

で、ある時に、「私もニーチェの本を買って読んでみようかなぁ」と掲示板に書いたところ、そのニーチェに詳しいかたが、えらく喜んでくれまして、勢いでこんなことを私に向けて言いました。

「そら、きちがいに刃物やー!!!!」と大喜びして。

酷いでしょ? 失礼だよね?(苦笑)

まあ、失礼とも酷いともまったく感じなかったわけですが、彼はあわててこう言い直しました。

「ちがった! 鬼に金棒やん!!!!!!!」

私は鬼かい!!!???(苦笑)

 

そんなわけで、東京駅南口の八重洲ブックセンターへ足を運びまして、インスピレーションで手に取った本が、白水社版ニーチェ全集『ツァラトゥストラはこう語った』だったのです。4800円+消費税。哲学書って高いんだなあと思いつつ、どうせだしと思って『悲劇の誕生』『反時代的考察』『善悪の彼岸』まとめて4冊の大人買い。その時には文庫本を選ぶという選択肢はありませんでした。

で、どうだったかと言えば、鬼に金棒どころか猫に小判。

ツァラトゥストラは早々と挫折。

悲劇の誕生と善悪の彼岸は飛ばし飛ばし興味の湧いたところを読んでたかな。

その後も、ツァラトゥストラをちょこちょこと開いて読んでいましたが10分ともたない。物語に整合性がとれないんですよ。なんか感覚がおかしい。

そんなこんなで5年くらいは半ば放置していて、その後たらたらと、本格的に読み始めたのは4年ちょっと前にアメブロを書き始めた頃からですね。

 

ニーチェを紹介してくれた彼が言った「きちがいに刃物 鬼に金棒」は、私がそもそもニーチェ哲学的生きかたをしているから(掲示板やコラムにいろいろ書いていましたので)、ということに気づきましたが、心理学的に分析しだした今はそうは思っていません。これについては後半に書きます。

その後、カント、デカルト、ベルクソン、アリストテレス、アラン、ヒルティ、ショーペンハウアー、オルテガあたりの代表作にさらさら~っと、いや、ほんとにさらさらら~んと触れて、またニーチェに戻りました。ベルクソンにはちょっと引っかかるものを感じていて、これから全集を買って触れてみようかなと思っている第一候補です。

 

なぜニーチェに戻ったかと言うと、カール・グスタフ・ユングとの出会いがあったからです。波長が合ってしまったんですね。私が思うに、ニーチェの後継者とおぼしきナンバーワンはユングです。

ニーチェの心理学についての言及はそこかしこにみうけられますが、いま思い出す箇所を拾ってきてみます。

 

――私の著作からは比類ない一人の心理学者が語っている、このことはおそらく良い読者が最初に到達する洞察であろう。(p96)

心理学者である私を理解して頂くために、私は『善悪の彼岸』に出てくる心理学の珍しい一小節を取り上げてみることにする。(以下略) (p100)

(西尾幹二訳 新潮文庫版 『この人を見よ』 )

 

私が捉えたように、心理学を力への意志の進化論ないし形態論として捉えること――これにちらっとでも思いを致した者はまだ誰もいない・・・

(中略)

真の生理=心理学なるものは、研究者の心にやどる無意識の抵抗と戦わなければならず、それは自らに逆らう「心」をもっている・・・

(中略)

少なくとも、心理学がふたたび諸学の女王として認められるようになり、それ以外の学問はこれに奉仕し、これを準備するために存在するようになることを、要求してもいいだろう。

なぜならば、心理学は今やふたたび根本問題にいたる道となっているからだ。

(吉村博次訳 白水社版ニーチェ全集 『善悪の彼岸』 p48-49)

 

ニーチェは古典文献学者からスタートしました。彼は自分を哲学者ではなく、心理学者と位置づけておきたかったようです。そして心理学は最高の学問であると。哲学は心理学に奉仕し、心理学のための準備をする学問であるとした。

当時はおそらく心理学の学問的地位は低く(今でも低いと思います)、大心理学者はいませんでした。「科学」としても扱われなかった(普遍性に疑問符がつくため)

ニーチェの『ツァラトゥストラ』から、フロイトの無意識が生まれ(エスという概念はニーチェが同書に書いています)、更にフロイトは同書の「三つの悪」という章から「性的欲求は肯定されて良いのだ」ということを学び、その後の性衝動の心理学に繋げました。

アドラーは、同書の「救済」と「三つの悪」の章から「力への意志」を抜き出し個人心理学に繋げました。

ユングは、これは私の推量がたぶんに入りますが、「超人」から自己統合を見出し、『ツァラトゥストラ』に登場する他キャラクターの幾つかを無意識内にある「集合的無意識のモティーフ」にし、(ツァラトゥストラ自身も「老賢者」のモティーフにして)、『元型論』を著したのではないかと考えます。

また、ユングにおいては自分を実験台にして、「超人」に近づいてみようと試行錯誤した体験記録が著書の中に見受けられます。

このように、ニーチェは『ツァラトゥストラ』の一書をもって、近代の三大心理学者(精神医学者)に多大なる影響を与えたのです。

 

そうして(深層心理学的視点をもって)、私は近年になってもう一度『ツァラトゥストラ』を少しずつ読み直したところ、いかにこの書が心理学的に深い洞察に満ちているかということに驚きました。

それもあって、このホームページに『ツァラトゥストラ』の個人的解釈を綴るコーナーを作ったわけです。

 

それもこれも「きちがいに刃物」のひと言をもって、私に『ツァラトゥストラ』を買わせしめた彼との縁があったからでした。ニーチェ哲学(刃物)と私との縁結びの神なのです。

そして彼が掲示板に多くのニーチェ哲学をいつも書いていたこと、これを解らないながらも私は読んで無意識の中に取り込んでいたのでしょうね。それが理解の助けになったことは確かです。

縁結びの神さんに、パンパンと二拍一礼して毎日拝んでおります(嘘です。苦笑)

大感謝。

 

ニーチェの哲学を工夫すると、プライベートだけでなくビジネス面でも発想が柔軟になり、良い仕事につながることが解っています。

特に新しいアイデアの創造にどんどん繋がります。閃くようになるのです。

『ツァラトゥストラ』は私にとって、愛読書のなかで間違いなくナンバーワンです。

この一冊だけであと100年くらいは楽しめる。