五千年後の子どもたち


五千年後の子どもたち


 

「五千年後」に込めた意義

 

当ブログでは、「五千年後に暮らす世界中の子どもたちの笑顔のために」をサブテーマに掲げています。まず始めにお断りしておくことは、これは私的なテーマであって、普遍的価値を目指すものでも啓蒙するものでもないということであります。

ここでは、私にとって、なぜ「五千年後」なのか、なぜ「今」ではないのか、なぜ「百年後」ではないのか、なぜ「二千年後ではだめなのか」について説明させていただきます。

 


 

まず「今の子どもたちの笑顔のために」は、当然あってしかるべき視点で、日本政府をはじめ多くの知識人や教育者、問題意識をもって取り組んでいる一般のかたがたなどが十分にいらっしゃいます。

百年後にしても同様に、「教育」というテーマへと収斂され、国家としての目的的に、「今」よりはだいぶ少数になるでしょうけれど、取り組んでおられるかたがいらっしゃいますし、今後さらに、「百年後」の視点での活動が盛んになっていくのではないかと考えている次第です。

さてそこで、「子どもたちの教育」ということで社会は良くなっていくのだろうかと考えますと、子どもたちを教えるおとな、子どもたちに手本を示せるおとなが当然必要になってくるわけです。そこを疎かにして子どもの教育もなにもあったものではない。

 


 

ところで、現代では細かいところまで法律が作られ、科学の発展によって科学信仰と言ってよいほど、社会生活の科学への依存度が高まっています。

そうしますと、なんでもかんでも、人を法律に従わせる国家、人を科学に依存させる国家ということになり、善悪を自分の心で考えなくなる人、合理性を重要視するあまりに感情が顔の表情から消えていく人、そうした人たちを量産しているのが現代社会だと言える。

善悪を自分の心で考えなくなる人、情緒・情操・情感が薄らいだ科学的人間が、子どもたちにどのように教えていくのだろうか。子どもたちにどのような夢のサポートができるのだろうか。はたして、そのようなおとなたちが子どもたちの手本となった社会というのは、子どもたちの笑顔の爆発が見られる社会なのだろうか。

かような疑問に突き当たってしまうのです。

 


 

すべての社会問題、混迷を深める世界情勢は、場あたり的な対処療法で継ぎはぎしていくことでは一向に変わりません。継ぎはぎだらけで複雑化していく社会というのは、むしろ心が閉じて荒廃してくる。政治家の上意下達に期待しようにも「人間」がいないという現実に愕然とする。

それはなぜか。国民全体の人間レベルがそうだからにほかなりません。

私には、経済ばかりに目を向けさせる政治家とメディアによって、日本国民は、経済が良いことをもって良い社会だと思わせられているように感じられるのです。

違うのではありませんか?

経済、科学、法律などは社会生活の表層に位置するものであって、人間の心に根差す根源的なものではありません。

 


 

長い年月をかけて醸成されてきた日本文化や日本精神は、情報のグローバリゼーション、経済価値マンセー主義によって大きな分水嶺を迎えている。いや日本だけにとどまらず世界だ。地球人類全体として、グローバリゼーションのカオスにあると言っていい。

今後、文化レベルや精神レベルを上げていかないことには、ロボット化が進行していく未来では、「心」や「感情」の価値がどんどん暴落していきます。人から人間味が消えてゆく。

そうならないために肝腎なものは、人間らしい心を醸成していく思想であります。つまるところ、思想とその実践が、人間に価値を造りうる根源的な基礎地盤にほかならない。

それは唯一無二の絶対的思想ではなく、その時代その時代に生きる人たちが智恵を絞って考え抜き、過去の思想を常に自由に塗り替えていけること。そうした土壌に醸成される、言うならば融通無碍に進化していく思想です。

思想に内臓された建設的な生命力によって思想自体が進化していくこと。

 


 

そうした思想ともなれば、100年ほどの期間では到底確立できません。

では二千年ではどうかと考えてみれば、ちょうど約二千年前にキリストの生誕があり、二千五百年前には、釈迦、孔子、ソクラテスが出ております。人間の道を確たるものとして建設するためには、二千年あればある程度できそうだという思いに至ります。

二千年後の世界中の子どもたちの笑顔のために、というのは目的化できそうです。

 

ここからは自分自身のことです。

そこで私は、「目的化」ということ自体を懐疑的にとらえてしまうのです。

その目的というものにプラスの価値を置いている。けれどそのプラスの価値は絶対的なものではなく、相対的であるがゆえに変化を余儀なくされる。目的には結果があり、結果が目的でもあるのですが、私的価値の対象化からは逃れられないのですね。

 


 

説明が不十分かもしれませんが、もう、私の想像を絶する領域、想像しようにも困難な遠い世界、価値をそこに見出そうにもできない未来。

それが五千年後ということです。

2017年の五千年後、7017年に固定するものではありません。

2020年には7020年、命が尽きるまで五千年後は変わらない、そうして五千年後へ常に心を馳せること。五千年後への道を創ろうとすること。五千年後の子どもたちと感情を交えながら心の中で交信しようとすること。

それを自分の一つのテーマにしようという趣旨であります。

 


 

西郷隆盛の有名な言葉、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手に己を尽くし、人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」 における「天」は、私にとっての「五千年後の世界中の子どもたち」と言い換えることができる。

そんなイメージの「五千年」です。