『日本』という個性(8)


 

桜の人モード

今日のテーマは「いき」です。

「いき」は漢字で「粋」とも書きますが、前者はもともと江戸っ子の「意気」であり、後者は上方(京都)の「粋(すい)」で異質なものでした。語源とその変遷についての知識的なものはインターネット上に転がっていますので、ここでは語りません。

おそらく京都のかたの「粋(すい)」、江戸っ子の「いき」にはそれぞれ誇りがあると思うので「一緒にしてくれるな」という人もなかにはいらっしゃると思います。

現代ではほとんど使われなくなっていますし、「いきな後ろ姿だねえ」だとか、「こいきな柄だねえ」などの言葉を聞いても、イメージが解らない人が多いのではないでしょうか。

哲学者の九鬼周造(1888-1941)は『「いき」の構造』を書いていますが、文部官僚でもあった九鬼男爵の、貴族の子息として育った九鬼周造の「いき」は、花街・花柳界で遊ぶ「いき」が主体となっており、東京下町で暮らしたこともないお坊ちゃんだった彼には、実感として町人文化を肌で感じることはできなかったと思います。媚態以外の町人文化のほうの「いき」については、文献研究での、机上の理論しか組み立てていません。みずから下町を見た、下町の風情を感じたというふうな、主観体験的なことが伝わってくる文章は一行もないのです。媚態のほうはあるのにです。

 

同書で九鬼は、「いき」の内包的構造として三つの要素を挙げます。

ひとつめは「媚態」で、要するに異性を誘惑するための色気であり、意図的な媚態演技であるというわけです。九鬼の頭にあったのは、もちろんプロの女性です。

ふたつめは「意気地」で、江戸の意気張りや辰巳の俠骨がなければならないとあって、武士道の理想にその源泉をみています。

みっつめは「諦め」で、「つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢ぬけした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である」とし、仏教の諦念に源泉をみています。

九鬼の議論では「意気地」も「諦め」も、「媚態」であるための内面価値としています。

 

私は、花街・花柳界における「いき」と、町人文化の「いき」は別物だと思います。無理して関連付けなくても良いと思うのです。

いきな遊び人は、花街・花柳界でいきな遊び方を心得ている、というだけです。現代への延長上で、例えばクラブやラウンジでの遊び方などの心得があると客としてモテるわけですが、これは、遊び慣れた先輩に教えてもらうことと慣れ以外のなにものでもありません。

九鬼の場合は、遊び人としてのこちら側の心得よりも、プロの女性の媚態に「いき」をみる比重が高かったのだと思いますが、はたして、演技である媚態に「粋」でも「意気」でも感じられるものなのか。やはりその女性の内面からおのずと滲み出てくる「色香」こそ「いき」なのではないかと思うのですが。

 

一方、町人文化での「いき」は、九鬼が「意気地」と「諦め」で述べている内容に一部同感します。「俠」がある、気風(きっぷ)がいい、さっぱりしている、さわやかである、はっきりしている、垢ぬけている(野暮ではない)、竹を割ったような気質、根に持たない、くよくよしない、引きずらない、くどくない、けじめが速断、腰が軽い、勇み肌で喧嘩っ早い(「いなせ」と被る部分がある)、流麗さがある(着流しの粋な人)、労苦や努力を隠す、金銭に執着しない(宵越しの金はもたない)などのイメージが次々と浮かんできます。

今思えば、私の父はまさに「いき」な男でした。父だけでなくその姉ふたり(伯母たち)も「いき」でしたね。着るもの身に着ける装飾、色あいなどへのこだわり(「いき」だねえ~という言葉がよく使われてました)、生き方や性格までも「いき」だった。

 

九鬼の「意気地」を私なりに言い換えれば「心意気(気概)」になります。消極的な「諦め」ではなく積極的な「けじめ」によって自分の心を自傷しながら断絶していく印象があります。

洒脱さは都会的な感性の洗練です。

使う言葉、身のこなし、立ち居振る舞い、髪、化粧、衣服や装飾小物(色や柄を含む)、お金の支払いかた、別れかた、そうした表現のなかに洒脱な「いき」があるわけです。

 

花街・花柳界における「媚態」について思うのは、こちらは他者からの承認欲求オンリーで、町人文化の「いき」も他者からの承認欲求も含みますが、こちらは、自己承認欲求も強いと思います。

世阿弥の「花(秘すれば花なり)」、『葉隠』の武士道と同様に「いき」にも言えるのは、生きかたの美学には、他者からの承認欲求とともに、ナルシシズム(自己陶酔)があると思うのです。

ここでの承認欲求は大きく分けて4つあると考えました。

1.人間価値として

2.同性に対するもの

3.異性に対するもの

4.職にかんするもの

たとえば「男らしさ」は、男性社会の中での男らしさと、女性が男性に思う男らしさは異なります。これを「女らしさ」に言い換えれば、女性にとっては大変わかりやすいでしょう。(女性社会の「女らしさ」のチェック、つまり女性の女性に対するチェックは、男性には想像もつかないほど細かい観察があり、そして闘争的です、苦笑)

 

他方、ナルシシズムというのは、内省を含む自己人格の二重性だと思います。

「性」にかんして男性を例にとれば、意識上に現れる自我が、無意識にある自分のなかの男性に男として惚れられるかどうか、自分のなかの女性に男として惚れられるかどうかの二つがある。

「人間」としての価値では、その人がどれくらいの水準を生き方としてのモデルにしているかによって個人差は大きく、ここでのナルシシズムはまさに内省とセットになる。「職」にかんしても同様ですね。

こうしてみてくると、それぞれの立場としての内面的な「矜恃」に支えられています。

 

「いき」の現代日本人モデルは誰かなあと考えていたのですが、大リーガーのイチロー選手はグラウンド上で「いき」だと思います。海外でも「いき」に似た文化があるんじゃないかと思い想起したのは英国紳士です。少々の雨ならば傘をささずにハットとレインコートで歩く姿には「いき」を感じます。

「いき」は日本的な純粋性とどう関係してくるのか、まだまだ考察が不十分ですが。