無意識的隷属根性から自由になるために


 

山の人モード

前記事の最後に「内心の承認欲求をすべて廃棄し」と書いた。さらりと。

反省している。
こういう総論総括的な結論を直観的に私は書き過ぎる。安易に。

深省すれば、ダイアモンド並みの超硬度の壁と地球ほどの重量のある、百回ほど生き死にを繰り返してようやく扉をかすかに開くことができるかもしれないというレベルのテーマであった。

他者からの社会的評価に心ひとつ動かさない、自分としても自身の社会的評価を無視することができるのかどうか。「さすがだね」と心からそう言われて心ひとつ動かさない。できるのだろうか。それに、仮にできたとしてもなんだか湿度3%くらいに乾燥していて、人間味のないゾンビのようである。声をかけてくれた人の感情を害することにもなろう。

承認欲求については継続審議中のランプを点灯させておこう。

 

さて、今日も安易に書くか(苦笑)

 

引き続き、私を含めた現代大衆の「畜群根性」について考察を重ねていきたいが、テーマが大き過ぎることもあって、小テーマに分割し分析してみたらどうかと考えた。

どのようなジャンルに、私たちの大衆的畜群根性が発揮されるのだろうかと。

  1. 前記事で扱った、政治権力
  2. お金
  3. 宗教信仰
  4. イデオロギーや思想
  5. マスメディアや世論、マジョリティー
  6. グローバルスタンダードという価値
  7. 人の社会的地位、肩書、略歴
  8. 法律
  9. 科学

まだ他にもあるだろうけれど、どういうことかを簡単に説明してみよう。

「1億円あげるから土下座して靴をなめろ」まではいかないまでも、札束で頬っぺたを張られてお金に隷従してしまうかどうか。

宗教で、「キリスト神を信じない者は人間ではなくただの下等動物だ」「アラーの神を信じない者には天罰が下る」だとか、「ほかの宗教は一切邪道で悪だ(日蓮宗ほかいろいろ)」などと教えられ、他者をそういう目で見る信仰者かどうか。教義を絶対的真理として鵜呑みにし、盲従している信者。

政治思想で言えば保守かリベラルか、左か右か、自民党か民進党、ナショナリストかグローバリストかというラベルに異様に強いこだわりを持ち、人を振り分けようとする人、自分が隷属しているところから敵対するグループを攻撃、排撃しようとする人かどうか。

マスメディアの言論に左右され、周囲がどういう反応を示しているのかを観察し多数派にまわり、「マジョリティーはこうだ」といちいち多数派を持ち出し説得材料にする人、説得されてしまう人であるかどうか。

自由や平等など、ポリティカルコレクトネスがグローバルスタンダードとして流行しているし、世間もそれを善としているようだという理由で、「それは正しい」と妄信している人かどうか。本質的に根を深く掘り下げて、口ばかりペラペラと動かすのではなく、その価値が湧いている源泉を自分の目で確認し熟考を重ねている人かどうか。

目の前にアメリカ大統領トランプやロシア大統領プーチンが立っていたとして、気後れせずに対等の人間として堂々と握手ができるかどうか。「警視総監」「東京大学教授」などの肩書や経験的略歴の表面価値によって、他人を威圧しない人、威圧しないよう気づかいできる人。臆せず、おもねらず、媚びへつらわずの清明心があって、委縮しない人かどうか。

法律は絶対的だとして、「法的に問題ないのならそれでよい」という意見について何の反発も感じない、或いは直ぐに法律を持ち出し法の力によって相手をねじ伏せようとするタイプかどうか。科学についても同様である。自分の思考力を使って考えようとせず、外からの他律的判断に服してしまう人。

 

大衆的畜群根性に満ち溢れているような人は、上記の価値に隷従してひれ伏し、劣等感をおぼえ、または逆に優越感にひたり、他人を見下して支配しようとする人である。

隷従しひれ伏す人は、同時に、見下し支配する人でもある。

見下している人は、どこかで誰かに、必ずひれ伏している。

嫉妬心と虚栄心、隷属欲と支配欲はそれぞれ同根だ。

 

まあ、一つや二つ、幾つかに今の自分が当てはまったとしても仕方ない。現代的価値に対して畜群であることは、大なり小なり皆あるんじゃないかと思う。

要は、「これから」である。

 

これらひとつひとつに関して、丁寧に、根本的価値を考究し、人間のこうした気持ちはなぜ起こるのか無意識心理を探究し、大衆畜群根性の解決策は何かについて今後深く考え、社会的行動を起こしていこうと思う。

それぞれについて、自律と他律、内発と外発、受容と拒否、能動と受動、内罰と外罰、自罰と他罰、主観的内省と客観的事実認識、情動と理性、過去と現在の関係性、未来と現在の関係性にいたるまで、とことん考え抜いてゆこうと思う。

大衆ひとりひとりには、凜然として聳え立つ誇り高き山のごとく、自由で高貴な精神の端緒が、たったひとりの例外もなく誰にでも必ずある。