リベラリズム考(3)―寛容


 

 

水の人モード

リベラリズム考(2)―啓蒙 からのつづき。

 

前の記事では啓蒙思想を扱った。
[仏] Lumières [独] Aufklärung [英] Enlightenment を日本語に翻訳した「啓蒙」の二文字には、ヨーロッパの各時代の歴史、そこに生きた知識人たちの葛藤と格闘による膨大な叡智が凝縮されていることを学んだ。こんにち、単に「リベラル」という語を軽く扱う現代の知識人、特にマスメディアや政治家、評論家は、啓蒙の叡知とそこに至るまでの血の流れた争いを心底理解しているのだろうか。私には、「リベラル」という人類叡知の言葉の重みを熟知し、使用表現している人がとても少ないように思えてならない。

今回の記事では「寛容」について調べ、それがどのように現代的価値におけるリベラリズムの一側面へと発展してきたのか、道筋を明らかにしていきたい。

 

■ 寛容

[ギ] epiekikeia, eleutheria [英] tolerance

寛容の理念は、宗教的信仰や政治的権威に対し自由な理性と良心を掲げたギリシア哲学に発し、アリストテレスにおける寛大さ generositas の徳は、人々の共同体的で和合的な倫理として、ルネサンス思想や近代哲学に継承された。

またストア派におけるコスモポリタン的な自然法論やエピクロス派における精神の静寂は、古代ローマの個人主義的寛容や帝国の寛容政策を育んだ。(中略)

十字軍、宗教内乱、異端審問など甚大な血の犠牲が払われた後、宗教改革による教会の多元化と管轄制がアウグスブルクの宗教和議によって認められ、寛容は宗教的自由を意味する美徳へと転化した。(中略)

宗教的寛容を主張した自由思想としては、エラスムス、モンテーニュ、ベールのように理性と信仰を峻別する懐疑主義的ヒューマニズム(※1)、宗派より平和と公的秩序を優先させたボダンらフランスのポリティーク(※2)、宗教と教会に対する政治と国家の第一義性を主張したホッブスなどのエラストゥス主義(※3)、思想と言論の自由そのものを主張したミルトンやスピノザなどの系譜がある。

その集大成は、政教分離と真の道徳・宗教をみいだすための寛容、および自然権・市民権としての良心の自由を主張したロックにみられ、理性の、信仰に対する優位を説いたボルテール、ディドロ、レッシング、カントなどの啓蒙思想の寛容論に大きな影響を与えた。

ロックにおいても政治的に危険な勢力(カトリックと無神論)に寛容が認められなかったように「寛容は不寛容の反対ではなくその偽装である」側面をもっていたため、19世紀以降は、政治的党派の活動や少数意見の自由と共存を保証する政治的寛容や、アンチ・セミティズム(※4)の勃興にともなう人種的寛容が、民主主義の問題の焦点になった。(中略)

概して近代自由主義的思考のなかで培われてきた寛容の理念は、普遍的絶対的な真理や価値に理性によって到達するための手段なのか、あるいは根源的な多元主義・相対主義の当然の帰結なのかという、根本的なアポリア(※5)を含意し続けてきた。

エスニシティ(※6)・ジェンダー・慣習・法・教育など日常生活全般にわたって文化的多元主義が問題となった現代では、国家のみならず地域・学校・家庭等々における社会的寛容が問い直され、近代自由主義のアポリアをのり越える寛容概念の再構築が求められている。

(『岩波哲学思想事典』 p297)

 

※1 懐疑主義的ヒューマニズム・・・人間の理性を疑い信仰主義を提唱しつつ、人間そのものへの関心をもって本性や尊厳を考察する立場。
※2 ポリティーク・・・宗教よりも国家を優先させる、政教分離の土台となった考え方。
※3 エラストゥス主義・・・(主にキリスト教)教会は国家に帰属するという立場。
※4 アンチ・セミティズム・・・一般的に反ユダヤ主義
※5 アポリア・・・哲学的難問。および難問がひきおこす困惑。
※6 エスニシティ・・・人種、民族とならぶ人間の帰属意識の一つ。主観的には文化や言語や信仰などの属性によって分類された人びとの共属感覚であり、客観的にはある集団の一員であることを示す基準でもある。(『岩波哲学思想事典』 p155)

※文中の太字の強調は私の手によるものです。

 

啓蒙思想と同じく、西洋が寛容へ向かったのは宗教的ドグマに対する抵抗が主要因だった。私たち日本人にはちょっと想像できないレベルの、西洋における強い宗教支配があったのだと思う。

「和合的な倫理」という文言を読んで、わが日本古典の「和を以って貴しと為す」の精神を思い浮かべた人もいるだろう。多民族が入り混じり、一神教に偏重し、自我と自己主張が強い西洋人の「和合」は、多神教の日本とは比較にならないけれど。

すでに古代ギリシア時代に「個人主義」の端緒があった。日本人がイメージする個人主義とは利己主義だとか孤立主義、個人優先主義のようなものではないだろうか。ヨーロッパの個人主義には二千年を超える歴史と多様な側面があって一概に言い切ることはできない。個人主義はリベラリズムの一側面でもあるので、別の記事で学んでいきたい。

 

懐疑主義は人間の理性を信用しないがゆえ保守主義であり、神への信仰が必要だとする。しかし人間は神の下僕や奴隷ではなく、ひとりびとりが価値あるもので尊重されなくてはならないという人文主義のヒューマニズムが盛んに言われた時代があった。

寛容は、思想と言論の自由をここに生みだした。

宗教と政治を分けた政教分離も寛容から出たものだった。

そうして宗教信仰よりも理性を優先する気運が、啓蒙思想と寛容を結び付けた。啓蒙主義の理性偏重では自分勝手な正義へ暴走する可能性がある。啓蒙の暴走を抑制する役目を寛容が担った。

 

しかし、寛容は、不寛容な思想や態度を内包できない。なぜならば不寛容が自分勝手に振舞い、(現在の北朝鮮やISのように、或いはかつてのオウム真理教のように)放置すればやったもの勝ちになって寛容な社会が破壊されてしまう。そのために、寛容は不寛容に対しては毅然と不寛容にならなくてはいけない。寛容のパラドックスだとも言える。アメリカの民主党はリベラルであるが、オバマがアフガニスタンやイラクに対し戦争行為で制圧しようとしたり、リビアの独裁を許さずに攻撃したりしたことは、寛容が不寛容を許さないことの証左である。

 

寛容のアポリアは現代の人類が直面している、最も大きな現実的課題だろう。

文化多元主義は、ダイバーシティ(多様性を認める社会)という語で近年は語られるが、思想史的には、マルチ・カルチュラリズム(多文化主義 multiculturalism )が先行しており、そこからポリティカル・コレクトネス運動が派生している。

マルチ・カルチュラリズム・・・一つの国家ないし社会の内部に、複数の異なる文化が共存できるよう集団間の政治的・経済的・社会的な不平等を是正しようとする運動および主張。一つの文化(言語や宗教など)のもとに国民国家を統合しようとしてきた「同化政策」に対立する。各文化に固有な価値を尊重しようとする点では「文化相対主義」に通じるものがあるが、たんに異文化の内在的理解を説くだけでなく、同一社会のなかの複数の文化を等しく尊重しようとする強い実践的志向を有する。(『岩波哲学思想事典』 p1535)

 

啓蒙と寛容の歴史を少し辿っただけで、リベラリズムが単なる自由主義ではなく、人類の流血と革命、先人たちの理性と知恵が染み込んだ叡智であることを、我々はもっと重く受け止め心に刻まなくてはならない。安易に「リベラル」とは口に出せなくなるはずだ。

 

次の記事では、日本語の自由、英語のリバティ、フリーダムの違いを考察することによって、リベラルの進歩的意義について学んでみたい。

 

リベラリズム考(4)―Liberty へつづく。