先賢とのおもしろ対話

昨日記事では「笑いながら哲学する」をテーマにニーチェをいじりましたが、今日は、わたし流の先賢との対話をおもしろく綴ってまいります。 上の写真は「考える人/ロダン」でありますが、やはりどうしても、トイレの最中に考えるふりをしているだけなんじゃないかという不安がよぎります。不安って?(苦笑) なんか哲学だとか何とか学だとかという学問っぽい書を読むときって、みな... Read More

ニーチェの茶目っ気ぶりご紹介

ニーチェをよくご存知ない人は、ニーチェと聞くとどういう想像をされますか? 哲学者で気難しい感じの人、天才と狂人は紙一重で遂に気が狂ってしまった人、『ツァラトゥストラはかく語りき』での「超人」を発明した人、よくわからない人(苦笑)などでしょうか?   いえ、私もそれほど詳しいことは知らないのですが、ブログでちょくちょくニーチェを引用している手前、今... Read More

大衆の克服(4)―エリートの定義変更

前の記事からのつづき。 「大衆の隷属根性の克服」をテーマとする考察を今回もとりあげる。 その前に。 A.大衆 B.エリート 大衆批判については、上記の二つの枠組みで、BからAに対し「隷属根性」を批判されることがほとんどだ。本ブログのスタンスとしては、A+B=Cの全体的俯瞰視点から、自らもAであることを念頭に置きつつ書いてきた。 『愚民社会』という書で、宮台... Read More

大衆の克服(3)―克服の決意

前の記事の最後に「内心の承認欲求をすべて廃棄し」と書いた。さらりと。 反省している。 こういう総論総括的な結論を直観的に私は書き過ぎる。軽々に。 深省すれば、ダイアモンド並みの超硬度の壁と地球ほどの重量のある、百回ほど生き死にを繰り返してようやく扉をかすかに開くことができるかもしれないというレベルのテーマであった。 他者からの社会的評価に心ひとつ動かさない... Read More

大衆の克服(2)―畜群根性

前の記事では「大衆」をフラットに見て書きました。今日の記事では「畜群根性に陥ってしまった大衆」として、「(大衆)の畜群性」を扱います。 「畜群」とは読んで字のごとしで、家畜化された群衆です。私も含めた大衆がもつ畜群根性を棄てていかない限り、民主主義は堕落してゆく一方になる。   今日はニーチェの辛辣な文章を引用していく。 善意があるのと同じだけ多... Read More

大衆の克服(1)―トップダウン意識は誤り

まず始めに「大衆」のことを考えてみたい。 私たちが「大衆」という言葉を用いるとき、それは国民の集合体なのか、マジョリティーなのか、ふつうの一般市民なのか、愚民の意味を孕んだものとして若干の侮蔑の意を込めるのかなどについて、自分なりに色を付けて解釈していると思います。 書き手の文脈にも、読み手の文脈にも左右されるのですが、今日は、政治家(行政指導者の長)だけ... Read More

『四季』はまだ聴けない

今日のキャッチ画像は残念な写真です。焦点はどこにあってるのかわからないし、手ぶれもいいところでブレブレな写真ですね。3年前の今日、2014年4月5日に多摩川の土手を歩きながら撮影、桜は満開でした。 この3年間、どうしても聴けない曲があります。 ヴィヴァルディの『四季』。CDはもちろん持っています。   雨が続いていた3年前の4月初め。  ... Read More

悠然と流れる心性

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。 私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。 しかもなおその私は依然として大河の一滴に過... Read More

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