新しい価値を芸術的に創作する思想のアトリエ


 

夜の人モード

サイトのサブタイトルを変更しました。「五千年後を遠望し 新しい美学価値を創造する思想のアトリエ」としました。自分の意識の中での位置づけも少し変わりました。

最近、竹田青嗣の哲学者としての集大成『欲望論』を読み始めています。正確には昨年末に一度挫折しての、再チャレンジです。昨年10月に刊行された第一巻と第二巻はそれぞれ『「意味」の原理論』『「価値」の原理論』と銘打たれています。第三巻は準備中だそうです。一冊700ページにも及ぶ大著であり、哲学学究的に先哲の思想や哲学用語なども含まれているため、一般の人には難解かと思われます。かくいう私も昨年は数時間で放り出しました。五か月後のいま再チャレンジしたところ少し理解できるように自分が進化していて、次第に夢中になって読みふけっております。

サブタイトルの変更はこの書が刺激となっていることもある。

 

ところで今後のコラムテーマの予定ですが、近いところでは、「ナショナリズム」「所属の欲求」「アイデンティティー」「自我」「主観・間主観・客観」等についての論考を予定しています。というよりも、自分に対して何を書くかの整理をいま書いているわけですね。

アメリカのトランプ現象とイギリスのブレグジット、フランスのカトリーヌ・ドヌーヴら100人のMeToo運動に対する反対運動、これらはすべて、メディア主導によるポリティカルコレクトネス運動に対する反発だと考えています。もっともこれは、私だけの認識ではなく、知名度の高い有識者のなかにも同様の見解が散見されますので目新しいものではありません。

こうした反発をもとに、世界中で「ナショナリズム」への揺り戻しが起こっており日本も例外ではありません。「保守(コンサバティヴ)」への回帰が本格化するのかどうかわかりませんが、リベラル(日本のリベラルではない)とコンサバが両極的に偏れば社会は分断されます。感情論が渦巻くようになる。

どうしたら良いかを表面的対処的に考えるのではなく、まず、ナショナリズムの心理的な原理はなにかを考察してみようと思っています。そこには所属の欲求がついて回る。マズローの心理学から所属欲求について考察したい。おそらくここでは、自分のアイデンティティーを、所属する集団概念に置換していることが明らかになりそうです。アイデンティティーを心理学に持ち込んだエリクソンの論を見直してみたい。

アイデンティティーとは自我の確立ともいえる。自我とはいったい何なのかについて西洋と東洋のそれを比較し、自我についての哲学的見解、心理学的見解を併せて参考にしつつ考えを深めたい。自我は主観だけの問題なのか、客観世界とどのようにかかわりをもつのか、これについては「間主観性」という概念の生みの親であるフッサールの現象学にあたってみます。超越論的自我論とも言われている彼の哲学は、ちょうど、冒頭に書いた竹田青嗣『欲望論』の下敷きとなっています。竹田はフッサール現象学とニーチェの力への意志を主軸に同書を著したと自ら述べています。

 

さて、私のサイトのサブタイトル(副題)を変えたことについてです。

竹田青嗣にしてもフッサールにしても、或いはほとんどの哲学者と呼ばれる人たちは、存在とは何か、認識とは何か、自分とは何かというふうに原理解明や自己究明への指向性によって、哲学学究的に、世界を解明しようとする、人間の認識システムを解明する、或いは自分自身を究明する方向で考察しているわけです。

私はそちらの方向性ではなく、新しい価値を、つまり現代における「経済」だとか「科学」だとか「名誉」「権力」「福祉」「愛」などの価値に代わる価値を、創造していこうとするものです。ニーチェの「力への意志」は解明究明型テーマでしたが、「永遠回帰」は創造型のテーマだと私は考えています(未だ誰も正当に解釈できていないとも思っています。私も含め。)。ニーチェ自身は新しい価値創造のほうを高く評価しています。趣味の問題かもわかりませんが、私は、こちらへ向かおうとするほうが自分の性に合っています。

ほぼすべての哲学者は哲学界内だけに拘って解明究明の理論を目指します。しかし私は哲学だけに拘らず、分析心理学や医学、日本思想などをリベラルアーツ的に幅広く活用し、新しい価値を創造していきたい。これは、言わば、思想の芸術的創作ではないかと考えました。それがサブタイトルの変更に繋がりました。

私は、自分の性格が職人気質的だとようやく気付きました。サイト制作でも1ミリ、1pixel のズレが絶対に許せないほどの完璧主義の一面がある。とことんのめりこみ、他者評価よりも自分が納得できる作品を創作し自己満足するタイプなので、思想の芸術的創作を職人的にやっていきたい。人生最後にして最大の事業と自分では位置付けています。生ある限り。

 

最後に、ニーチェの言葉を引用します。

 

彼らは、創造する者を最も憎む。石板を割り、古い諸価値を打ち砕く者、破壊者を、彼らは――破戒者と呼ぶ。

それというのも、善人たちは――創造できないからなのだ。彼らは常に、終末の始まりなのだ。――

彼らは、新しい石板に新しい価値を書く者を十字架につける。彼らは、わが身を救うために、未来を犠牲にする。――人間の未来すべてを十字架につける!

 

それゆえに、おおわが兄弟たちよ、”新しい貴族”が必要なのだ。すべての賤民とすべての暴君を敵に回し、新しい石板に新しく「高貴」の文字を刻む”貴族”が。

”貴族が成立するためには”、多数の、そしてさまざまな高貴な人たちが必要だ。あるいは、わたしがかつて比喩で語ったように、「神々はあっても、ひとりの神など存在しない。それがまさしく、神というものだ!」

 

おお、わが兄弟たちよ、わたしは君たちを選んで新しい貴族に任じよう。君たちは未来を生み出し育てる人、未来の種蒔き人であって欲しい。――

 

おお、わが兄弟たちよ、君たちの新しい貴族は、後ろを振り返るのではなく、”前方を”見やるのでなければならない!君たちは、すべての父と父祖の国から追放された身であらねばならない!

おのれの”子供たちの国”をこそ、君たちは愛せねばならない。この愛をもって、君たち新しい貴族の徴とせよ。――遠い遠い海に浮かぶ、いまだ発見されざる国! ひたすらにその国を求めて走れ!と、わたしは君たちの補選に命じる。

君たちは、君たちの子供によって、”償い”をせねばならない。君たちが君たちの父祖の子供であることの。”そうすることで”一切の過去を救済しなければならない! この新しい石板を、わたしは君たちの頭上に掲げる!

 

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』第三部「古い石板と新しい石板」11・12・26より一部引用、順不同)

 

私の場合は”貴族”などと呼べるような者ではありません。新しく創造する価値を石板に刻んでいこうとする「職人」です。上記における「遠い、遠い海に浮かぶ子供たちの国」が五千年後です。創作する作品は美学価値です。このサイトは芸術的に思想を創作するアトリエ、工房という位置づけとしました。

リアルにおいてもできるだけ早く「思想工房」をつくりたい。

そして高貴なる志をもつ有志を募っていきたい。

 

私にはそれほど多くの時間は残されていない。