西洋流と日本流の無意識への道


イギリスのタイムズ・ハイアー・エデュケーションが毎年発表している世界大学ランキング(2017-2018)によると、第1位はオックスフォード大学で日本トップの東京大学は第46位。その第14位に位置するコロンビア大学ビジネススクールで上級講師を務めるウィリアム・ダガン氏。彼は同スクールの大学院課程とエグゼグティブコース、その他世界中の企業を相手に、「第7感」についての講義を熱心に行っている。

彼の著書『The Seventh Sense』の邦訳版がダイヤモンド社から、『超、思考法/天才の閃きを科学的に起こす』として出版されている。(2017/11/15)

「第7感」とは何ぞや?

いわゆる直感的洞察の「第6感」の次のステージにある、天才的な突然の閃きに対する、著者の造語とのこと。映画で「シックスセンス」が使用済みだったことも有り得そうですが。面白そうじゃないかと思って読んでみることにしました。

『The Seventh Sense』の第一章の一部を引用する。

最新の脳科学のおかげで、この「突然のひらめき」についての解明が進み、人間の脳に秘められたこの神秘的なパワーをフルに活用できるようになったからだ。本書の目的は、読者であるあなたが、そんな脳のパワーを最大限に生かせるようになることだ。この本では、このパワーのことを「第7感」と呼ぶ。

(上記同書)

まずは批判からいこう。

彼は最初から大きく出た。まるで「突然のひらめき」が脳科学的に解明されたかのような論調であるが、同書の最後まで読んでも、脳のどの部位がどう反応して、脳に何が起こっているのかについては何も書かれていない。ゼロです。唖然とします。世界第14位のコロンビア大、大丈夫か? 要するにウィリアム・ダガン氏が「突然のひらめき」についての個人的な仮説を立て、講義をし、出版しているというだけだ。「科学的に」という言葉が随所に使われている(欧米では科学的論拠のない理論をオカルトとする傾向があるからだと思う)。ところがどこにも科学的エビデンスは見当たらない。この手の本は、仮説のストーリーに合う少ない事例をどこからか探してくる、または誰かに証言してもらうことで説得力を高める。かつてベストセラーとなったディール・カーネギー著『人を動かす』やナポレオン・ヒル著『成功哲学』などの系統と同じ手法です。スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』は「心の知能指数・EQ」という概念をつくってだいぶマシに進化していましたが流れは同じ。

それでも、幾つかは参考になることが書かれています。

〇第7感の基本的なメカニズムは、「既存の要素を新しく組み合わせること」。

脳内でのマッチングのことですが、これは100年も前にユングが無意識論で論じていますし、最近の私も同様のことを書いていて何も目新しいことではない。ですが、確認にはなりました。

〇「頭がリラックスした状態のときに、既存要素の新しい組み合わせが生じた」

〇「目の前の状況についての既存の考えを、いったん頭からすべて忘れることのできる心の状態」=オープンマインドをつくる

この2点も同様に、無意識内に「問題となるテーマを寝かせ」て醸成するということを何度も書いてきた。確認にはなりました。

忘れるために、「脳のプラグをすべて抜く」といった文学的表現も登場するのですが。大脳生理学や自律神経、脳内ホルモン分泌などの脳科学的・医学的なエビデンスがあるのかなと思いきやまったくないので残念。今後に期待。

ただ、世界の大学や世界の大企業が、「クリエイティヴ」な思考のできる人材を物凄く欲していること、とっかかりでもわずかなヒントでも良いのでダガン氏のように示唆してくれる人を求めていること、そうした時代に入ったことはよく理解できました。

上記同書については批判が中心となってしまいましたが、こうして批判されても仕方のない内容だと思います。昨日までの論考を見てお解りかと思いますが、ここではユング理論を中心に、ダガン氏よりもハイレベルな分析と論理構成によって、新しい価値創造のための考察を行っていると断言できる。

 

さてここで、コロンビア大のずっと下のランクに位置する東京大学(笑)を卒業して、「第7感」のことなど全く研究していないと思われる思想家の内田樹氏が、大ヒントとなることを述べているので紹介したい。あまりに気づく点が多かったので、超長文をA4サイズ16枚にプリントアウトして何度も読み直しています。上記の本一冊よりもこちらの方がはるかに価値もレベルも高い。レトリックを含めた高い文章力も大違いです。ベタ褒めが過ぎるので(下記のひとりごと)落としておきます(苦笑)

(でも私は内田樹氏の政治にかんするご発言とその内容は、直截に酷い表現であえて言わせていただくが、チャラいと思っております。思想家は政治にかかわるとたいてい劣化していくんですよ。左派だからということでなく右派も。尊敬する西尾幹二さんも今世紀に入った頃からそうなってしまったと思う。思想家の才能がもったいない。余談で失礼。)

 

氏はフランスの哲学者レヴィナスを翻訳する仕事に取り組んだが、全く理解できずに断念した。そして数年後に、忘れた頃にもう一回引っ張り出して読んでみるとちょっと分かるようになっていた。

驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけ経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。

この体験を更に抽象へと落とし込んで次のように述べる。

それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。(略) 身体はもうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないでじたばたしている」。(略) まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが実現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。(略)

自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。(略)

そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕には不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。

 

また、氏は合気道の道場を開き師範をされているのですが、その経験を踏まえて次のように述べる。

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと一秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1㎝太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やっているこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。

 

どうですか。繋がったでしょう?

ウィリアム・ダガン氏は「第7感」の閃きを得ることを目標に、目的的に、仮説を論理化しようと企図し、今も熱心に研究を続けていることでしょう。きわめて西洋的です。

一方の内田樹氏は、レヴィナスの翻訳については一度放棄して忘れてしまった。でもおそらく無意識の中にはテーマとして残っていた。長い期間の経験を含めて、アモルファスな星雲状態に無意識があって、形とならずにじたばたしていた。武道の修業においては、無目的的に、今目の前の修業を一所懸命にやる。ただただやる。そうして、あるとき、はっと気づく。

私たちの一生のことについても西洋流と日本流では全く逆なんです。西洋流では自分が生きる意味とは何かと考え、目的的に目標を定めようとする。人生設計をし計画的に生きて行こうとする。明治維新以降、現代日本でも西洋流が大流行していますね。

一方、伝統的な日本流では自分が生きた意味は死ぬ頃にはわかるのかもしれないし、わからなくても良いと考える。未来の計画よりも、とにかく「今」を大切に生きようとする。それはけっして刹那主義でもニヒリズムでもなく、「今」を大切に生きれば大丈夫だ、お天道様はちゃんと見てくれている、今をしっかりと善く生きていればそのうち良いことがきっとあるさ、といった非合理的な強い信念がある。

西洋流を否定するわけでも日本流のみを肯定するわけでもありません。どちらかに是非や優劣があるということではなく、できれば両方の考えかたを自分のなかに混在できていると良いと思うのです。それこそアモルファスな星雲状態です。

 

無意識の活用を考えた場合も、西洋流と日本流(あえて東洋流とは言いません)を混在させることによって化学反応を起こせると直感しています。ウィリアム・ダガン氏と内田樹氏の、異なった方法論ではあるが同じ方向性をもつ二論が、わずかここ数日のあいだに私の目の前に飛び込んできたことに、なにか偶然ではない、運命の流れのようなものを感じます。但し、単に混在させるだけでは駄目で、何事も深く、豊かに、徹底して掘り下げてゆかねば無意識がじたばたできない。

ユング理論の「構え」について、オリジナル応用論の考察を更に深めたい。

他方、大西克禮の「美学」を中心に、日本文化を深く掘り下げたい。

 

 

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