幽玄(1)


 

桜の人モード

前の記事で、美しい心こそが人類にとって第一等の価値となるべきと書いた。何をもって美しいとするのか、なぜそれを美しいと思うのか、どんなふうに美しいのか、それは普遍的なのか個人的なのかなどについて考え、そのメカニズムをつまびらかにしていくことが今後の第一の課題です。その次に価値構造の建設、創造がある。

今は、日本の美学を掘り下げながら心理学と照らし合わせていこうと思います。

 

■ 大西克禮の『幽玄論』

ここでは幽玄の「研究」をしようとするものではありません。幽玄を感受する心とはどんなふうなのか、どうやって感受する心ができあがってきたのか、心理面が主たるテーマです。従として、幽玄とは何かになる。

大西克禮によれば、幽玄を、「知的意味契機」「感情的意味契機」「価値美学」の三つの観点から考察することが必要であるという。

以下に引用しますが、少々晦渋な文章です。しかし時間を置いて繰り返し数回読むと、かえって分析が明快であることが判り、幽玄にかんする理解が深まるかと思います。まずは前者二つの「契機」の分析から入ります。

 

第一に、「幽玄」と云う概念は一般的に解釈しても、何等の形で隠され又は蔽(おお)われていると云うこと、即ち露わではなく、明白ではなく、何等か内に籠(こ)もったところのあると云うことを、その意味の重要な一契機として含むことは、その字義から推しても疑を容れない。(略)

第二に当然一種の仄暗(ほのぐら)さ、朦朧(もうろう)さ、薄明(はくめい)と云う意味が出て来る。(略)、余り明白に理をつめない大様さ、上品さの意味が生ずる。

第三に同じくそれ等と極めて緊密に聯関(れんかん)する意味契機として、一般に「幽玄」の概念の中には、仄暗く隠れたるものに伴う静寂と云う意味も含まれるであろう。(略)

第四の意味は深遠と云うことである。これも勿論前に述べた意味と聯関するが、しかし一般的の幽玄概念に於いても、この意味の契機は単に時間的空間的の距離に関するものではなく、特殊なる精神的意味、即ち例えば深く難解な思想を蔵する様な場合(「仏法幽玄」の如き)を意味する。(略)

第五に更にこれと直接に連絡する意味として、私は一種の充実相と云うことを指摘したい。幽玄なるものの内容は単に隠れたるもの、仄暗きもの、解し難きものであるのみならず、その中に言わば限りなく大なるものを集約し、凝結させた inhaltsschwer(※重い内容?表現豊か?) な充実相を蔵し、そこからして寧ろ前に列挙したような諸性格の結果して来る所に、その本質があるのではないかと思う。(略)

第六の意味契機としては、上述した様な諸々の意味と結びついて、更に一種の神秘性又は超自然性と云うようなものも考えられる。これは宗教的ないし哲学的概念としての「幽玄」に於いては当然の事であるが、そう云う神秘的ないし形而上学的意味は又美的意識にも感受されて、そこに特殊の感情方向を成立せしめるであろう。(略)

第七の意味契機は、前に言った第一及び第二の契機と極く近いものであるが、しかし単なる隠とか暗とか云う意味とは少し違って、寧ろ非合理的とか不可説的とか微妙とか云う如き性質に関する意味である。一般的意味の幽玄概念としては、それはまたかの深淵とか充実とか云うような意味と直ちに結びついて、いわゆる言説の相を絶する深趣妙諦(しんしゅみょうてい)を指すことになるが、美的意味に転ずれば、かの正徹が好んで「幽玄」の説明の中に指摘している「飄泊(ひょうはく)」とか「縹渺(ひょうびょう)」とか云う様な、言語に表現難き一種の不思議な美的情趣を指す。かの「余情」と云う如きものも、主としてこの意味契機の発展であって、歌の直接の詞心以外に、そこに表し得ない縹渺たる気分情趣が、その歌と共に揺曳(ようえい)する趣を言うのであろう。(略)

(書肆心水出版『大西克禮・美学コレクション・Ⅰ』幽玄論 p57-60 )

 

次に「価値美学」の観点。

 

さて吾々は先きに和歌に於ける芸術的最高価値の概念としての意味に於いて、「幽玄」と「有心(うしん)」とが大略一致すべきことを論じたが、一方まだ上に試みた幽玄概念の意味契機の分析に於いて、「幽玄」に於ける「深遠」と云うことが、美的意味に於ける「心深さ」「有心」「心の艶」等に照応するものであろうと云うことを想定した。故にこの様な関係を辿って考えても、第三の価値美学的観点の下に取り出ださるべき、幽玄概念の最も中心的なる意味は、恐らくこの美的意味に於ける「深さ」と云うような点に在るべきことは容易に想像されるであろう。ただしかし吾々はこの第三の観点に於ける美的意味の「深さ」が、先きの第二の観点に立って考えられた美的意味の「深さ」と、直ちに同じものであり得ないことを注意しなくてはならぬ。「効果美学」或は心理学的美学の立場から言えば、この意味の「深さ」は結局「心の深さ」とか「有心」とか云う外はないであろうが、しかしそう云う意味の美的深さはやがて心自体、精神自体の価値根拠の深さ――即ち「精神」その者の内面に終始する一種の価値内容として考えられ、従ってそれがまたややもすれば非直感的、非美的、道徳的価値の方向に帰着するものとして考えられる傾向が有る。

(略)

然るに今この様な美的意味に於ける「深さ」が真に「価値美学」的立場から解釈される場合には、それはもはや単に美の主体としての心の深さと云う如き主観的方向のみが考えられるのではなく、言わば主観と客観を打って一丸とした「美」その者の「深さ」が考えられなければならぬ。それは例えば美の「脆弱性」とか「崩落性」とか云うような性格が考えられる時に、それが単なる主観的意識の流動性としての意味に止まらず、正に「美」その者の「存在」の仕方に関するものとして解釈されるのと同様な関係である。

(略)

(書肆心水出版『大西克禮・美学コレクション・Ⅰ』幽玄論 p61 )

 

なるべく正確に文意を示したかったので長文引用となりました。

前半の「意味契機」では、観察者が、知的(知識的)な教養に支えながら美しさを感受する契機と、個人の心のなかに、体験によって醸成された感情、情操からじわじわと滲み出てくるイメージの契機とでも言いましょうか、その二つの契機を並行して考察した上での分類を行っています。

「価値美学」においては、知的なもの、感情的なものがミックスされ成熟した「有心」によって「深さ」を感受する。「美」その者の「深さ」。これを腹の中に落としこんで心で感受するにはもう少し時間を要します。

尚、仏教では有心を囚われた妄執の心として否定し厳しく批判します。無心でなくては駄目だという古代インド哲学からつづく感情の全面否定です。一方、日本の和歌や国学、伝統文化では有心が高貴な心だとされてきました。

 

まだ私も理解が追いついていませんので、引用はしたもののどうまとめて良いか思案に暮れてしまいました。

引用以降の文章では、「深さ」とは何かについての考察が、「崇高」という価値にまで昇華している。それほど多量な文章ではないのですが、岩盤をこつこつと鑿(のみ)で切り崩してゆく手作業のようなものです。

今日はここまでとします。

 

 

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