エピローグ/死の完全肯定


死の完全肯定


 

別世界への新たなスタート

 

死について語ることは、あまり歓迎されない。

それは死という事象が別れや終末を指し示すこともあって、良いイメージが無いからだろう。しかし誰にでも死が訪れるのは間違いなく、誠実に死を正視して考えを深めておくことは、いざという際のこころ構えになる。

 

私は、死を、別世界が開かれる新たなスタート地点と位置付ける。

 

その理由はこうである。

まず、死後の世界を私は知らない。天国や極楽浄土、地獄などの世界があるとする説もあるが、いずれも人間が創作した仮想世界であって証明されておらず、私に対する説得力をもたない。物質的に私の脳も体もすべて灰になるということは、記憶も性格も、五感もすべて消え去るということであり、天国へ行ったにしてもこの自我も姿も無く何もない。現実世界の空間と物質、時間、運動は私から消え去り、感覚することも認識することも思考することもできない。

一方、死とは無の世界だとする説は、無の世界だという証明が何もなく、こちらも私に対して説得力をもたない。無であるか何であるかわからないとするのが妥当だ。

天国にせよ無の世界にせよ、そうした観念は人間が言語とイメージにより創作したものである。死後の世界とは、死後を知り得ない人間知性の外側にあり、内側の人間知性による想像ではまったく推し量ることはできない。

 

では、生まれる前の状態に戻るのだろうか。

これもわからない。なぜなら生まれる前の世界と死んだ後の世界が同じだという証明は不可能だからだ。であれば、死後は死後として単独で位置付けるほかない。

 

つまり、死後はまったく未知の世界で不可知なのである。

物質的な私が消滅し、私の自我が消え去り、生の地点から死の地点までの私の人生は記録として残るのかもしれないが、そんなものはたかが人間知による世界上の話だ。

人類すべてが滅べば、人類の歴史は消滅する。意味も価値もない。

 

主観上で言えば、私は、「停止した世界」に置き去りにされる。

その「停止した世界」とは何か。わからない。

 

死のポイント地点は、いわば、その「停止した世界」への旅立ちであるかもしれないが、それを含めて、現在生きている世界とはまったく別の、新しく開かれた別世界へのスタート地点に立つということで間違いはない。

未知の世界へ。わくわくドキドキしながら冒険の旅へ向かうのだ。

 

残された人たちとの別れの未練はある。

彼らにとっても死別は辛いだろう。

けれど、残された人たちもやがて同じように死の地点に立つのである。

ならば、冒険の旅へわくわくしドキドキながら向かう姿を、彼らに見ておいてもらいたい。

勇気をもって見送ってほしい。

先陣を切って、死を、残された人たち自身の身にとっての、希望の意義に変えたい。

 

死の地点で私は、「皆よ、さらば! よし!いくぞ!!」 と完全肯定するつもりだ。