帰属意識とナショナリズム


 

桜の人モード

『HINOMARU』の歌詞が注目を集めている。批判することも擁護することも歌詞内容に同感することも、議論となることについて言えば国民意識は健全というべきだろう。そのほとんどがナショナリズムに直結させての考察であり、これは作詞者のブログを読んでみても同じである。まずはナショナリズムについて考え、次に別の側面からも光を当ててみたい。

例によって批判する立場の日本型リベラル左派の人たちやメディアは「詩の切り取り」を行い問題化する。文章だけでなく言論というのは一部の切り取りではなく、その全体の意図を把握し、全体に対しての見解を述べることが人間における高度知能が試される場面ではあるまいか。

『HINOMARU』の歌詞は以下から始まる。(全文引用は著作権の関係から避けます)

風のたなびくあの旗に 古(いにしえ)よりはためく旗に

意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに

曲タイトルの『HINOMARU』のとおり、日の丸(日本の国旗)に対する言葉にならない非合理的な感性と感情の正体は何かという問いから始まる。

他方では両親から始まるルーツの過去への広がりと、その過去の上に立つ自分自身は次のように表現される。

胸に優しき母の声 背中に強き父の教え

受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか

全体を貫いているのは、サッカーワールドカップを意識した、日の丸を背負って戦う選手への応援とサポーターである日本人全員の応援意識を高めようとする、「応援する感情」である。それを主旨として受け取るのが自然ではないだろうか。

重箱の隅をつつくように文言を切り取り、その切り取った文言に引用符を付けるようにして批判する文化は、現代人の知性の劣化を表していると言ったら言い過ぎだろうか。歌詞の一部を切り取り軍歌だとか国粋主義だとかの批判はピント外れであり、左派の右派叩きとしての我田引水ではなかろうか。

そもそもワールドカップにせよオリンピックにせよ、国別対抗のスポーツ競技という色合いが濃い。なかには選手個人に光が当たることもあるけれど。

選手は当然に自分の国を意識する。日の丸の国旗を意識する。

応援する日本国民も、日本チームを応援する人がほとんどだろう。日本チームに負けて欲しいという人も中にはいるだろうけれど極めて少数だと思う。応援する側も、日本の国を意識する。日の丸を意識する。日本という国に長い歴史の中で形成されてきた「流れ」を意識する。その流れの最先端に私たちは今いる。

グローバルでリベラルな考察や思想も大切で、しかし、それはナショナリズム(国家主義的意識)と常に反発するものではない。一個人のなかに、グローバリズムもナショナリズムもインディビデュアリズム(個人主義)もあるのがあたりまえだ。一個人の中に多様性を併存させることは何度も書いてきて、私のこのサイトの主旨の一つでもある。

国別対抗の世界大会では、自分の中のナショナリズムを昂揚させることが自然ではないだろうか。何ゆえに、自分の先祖の歴史の上に自分が立っていること、自分の内面にナショナリズムがあることを認めようとしないのか。日本という国家に対しお蔭さまでという感謝の心があれば、ナショナリズムは自分の中に必ず在るはずである。

 

長くなったので『帰属意識とアイデンティティ』については次の記事で。