アイデンティティ(3)


 

山の人モード

SNSの「いいね!」やポジティブコメントをもらうことは、通常、エイブラハム・マズローの承認欲求の文脈で語られる。返報性の原理(お返しをする)も混じるがこれは横に措くとして。本記事ではアイデンティティの文脈で共感や同感について考えてみたいと思う。

共感という言葉は主に感情面・感性面に使われるが、「彼の生きかたに共感を覚える」などにも使われる。一方同感は主に意見に対しての同意など知性・理性的な価値観に対して使われる。どちらについても、承認欲求の文脈でも同一性の文脈でも大差はないのでここでは「共感」で統一しておく。

共感については自我と他我の関係性による社会倫理を中心に、哲学でも扱われてきた。

 

共感 〔英〕sympathy

倫理学上の重要概念の一つ。ギリシア語のシュンパテイア(共に感じる、共に苦しむ)が原語で、一般に仲間意識を持つという意味で用いられてきた。現在では同情・憐憫・同胞感情という意味でも用いられている。(社会科学の用語としては〈同感〉という訳語が用いられている。)

共感は人間の自然的情緒であり、人間社会の基礎である近親感情や友交を生み出すものである。人間はその生存において他者に依存せざるを得ぬため、生活のごく初期から他者の動作や表情の意味を解釈することを学ぶ。これが共感の第一歩でありマクドゥガルはこれを〈原初的受動的共感〉と呼んでいる。これは次第により高度の他者の感情の意識的な評価へと発展し、やがて彼の属する社会集団の道徳的伝統の受容に至るのである。

(略)

【ヒューム】

人間は他者の行為を観察し、自己の経験と想像力によってその行為の動機である感情を感知する。この他者の感情の観念は自我のうちで次第に強まり、彼自身の印象へと転化していくのである。(…)共感は道徳的判断に際し、利己的な判断に対する被害者および第三者の非難の感情を知覚し、次第に理性に類似した穏やかにして強力な情念へと転化し、大きな変動を許さぬ公正な判断基準となっていく。

【スミス】

他者の情念に対する直接的な共感から生じる適宜性の感が人間を道徳的行為へと指向させる。社会を存続させるために最も重要な道徳は正義であると主張し、相互に傷つけ権利を侵害しようとしている人々の間においては社会は解体するのであり、人間相互の共感によってのみ支えられると考えた。

【カント】

人間の他者に対する共感的感情(感受性)は、人間本性のうちに植え込まれているものと考えていた。彼はこうした感受性を積極的な合理的な仁愛を促進する手段として用いることは人間の義務に属するものと信じていた。

【シェーラー】

共感とは通常「共歓および共苦と呼ばれる過程」、つまり他者と共に喜び、共に苦しむ体験、その限りでまた、われわれにとって他者の諸体験が直接に理解されるように見え、その諸体験にわれわれが直接に〈参与〉するような過程のことである。こうした共感は、一方では〈追感得〉、つまり感情移入から区別され、また他方では単なる一体感とも区別される。直観的にいえば、死児を前にした父母の悲痛の共有、そこに見られる〈相互感得〉が、その典型的な場面の一つであるともいえよう。

(『岩波哲学思想事典』p338)

 

共感という、理性的および情緒的な心のはたらきが、人間にとって非常に重要であることがわかる。哲学者たちの考察を深く真摯に捉えるならば、SNSの「いいね!」を単なる承認欲求として単純に語れなくなってくる。

上記事典からの引用では、共感が社会を前提としていることがわかる。

これを私は、同一性の文脈で、自己内の同一性への統合欲求が、自己と他者の関係へと延長したものとして共感をとらえてみたい。

他者との一部同一化を図りたい、その欲求は、自己のアイデンティティの確立を強固にし、安定させることを動機とすると考える。自分と同じように感じ考える他者がいることの確認によって心理的に安心し、自身の正当性を認識できる。

同一性の欲求が共感されたい側にあれば、感情的に自分の心に寄り添ってくれる人がいて、理性的に自分の意見への理解を示し、肯定してもらえる人がいれば心強いに違いない。

同一性の欲求が共感したい側にあれば、寄り添いたい仁愛の情は自身の幸福感情の一つと成り得る。理性的に尊敬できる共感相手はロールモデルとなって、それが一時的なものであれ、自分の成長に繋がる早道であることを無意識内の賢者は知っている。歴史上の人物でも良いし何人いてもいい。

また、同一性は属性への同一性という意味もある。社会生活を営む人間にとって、集合体や共同体(例えば国家や宗教団体なども含む)の理念や考え方に共感することは、心の内面に於いて同一性が図られるということであり、アイデンティティの確立に繋がり、社会での自分の存在価値を認識できる。

 

もし逆に同一性への欲求がありながらそれをことごとく撥ねつけられ、誰からも一切の共感を得られないとしたら、aloneのほうの(solitudeではなく)孤独感に苛まれ「小人閑居し不善を為す」のことわざの如く反社会的犯罪行為に走る可能性もある。福岡のブロガー事件の犯人がまさにこれだろう。

共感と同一性の関係についてはこの程度の論考で済むはずもなく、更に考察を深化させ、また新たなロジックを創ってみたい。

 

自己と他者の同一性については、行き過ぎた同一化への欲求によっての他者人格の“所有化”や精神を病んでしまうケースもある。精神医学者として臨床医でもあり心理学者でもあったユングは次のように述べている。

同一性とは何よりも客体と無意識的に同じ状態にあることである。(略)この同一性に基づいて素朴な偏見が、すなわちある人の心理が外の人のそれと同じであるとか、誰でも同じ動機を持っているとか、自分の気に入るものは当然他人にも満足のゆくものであるとか、自分にとって非道徳的なことは他人にとっても非道徳的であるに違いない、といった偏見が生ずる。

また、本来自分自身が変えるべきことを他人に改めさせようとする、よく見られる熱意も同一性に基づいている。さらに暗示や心理的感染も同一性に基づいている。同一性がとくにはっきり姿を現すのは病理的な場合であり、たとえば自らの主観的内容が当然他人にもあると決めてかかる偏執症的関係妄想(パラノイア)がそうである。

(C.G.ユング『タイプ論』p471)

共感、或いは同一性は素晴らしいものではあるが、一方では、大きなデメリットもあるということです。共感性が強い人、共感や同感についての意識が高い人はついつい「自分の体験的なものは誰にも当てはまる」「自分が正当と認めたものは誰にとっても正当」と考えがちになるし、他者の経験の独立性、価値観や感情の独立性について考えが及ばないことがあります。また、何らかの集合体や共同体への同一性に過度に共感し依存するようになれば、自立性と自律性が損なわれ視野が狭くなってしまいます。

他方、共感や同感について意識の低い人は(私がそうであると思う)、共感することの良い点を評価し直すべきだと思いました。しかしシンパシーを感じる相手は少ないですし、例えばここにこうして書いた主旨についての理解は多くの人にとって困難でしょうし、私にシンパシーを感じてくれる人もごく少数のマイノリティーだと思うので、なかなか難しいのですが。