エピソード記憶に対する批判


記憶は記録なのだろうか。記憶は記録と呼べるものなのだろうか。今日、ふいにこの疑問が立ち上がった。「記」という漢字を使うのは誤解のもとではないかと考えた。記憶はすべて記せるものなのか。記せないもののほうがほとんどではないのか。一方で記録は記したものであり記せないものを記録とは言わない。

人は自分自身の記憶とその想起しか体験できない。そこから他人にも記憶という仕組みがあるだろうとか、同じような仕方で記憶しているのではないかとか、推測の域を出て確信してしまっている感がある。記憶と記録の本質的な違い、記憶の相互主観性による客観理解については、エッセーで書ける分量ではないので今回は横に措く。

人間の記憶について、科学的にはほとんど解っていない。心理学者が現象からの統計などを使ってそれらしい論で説明するが、とてもじゃないが信用できるレベルにない。1972年に心理学者がつくりだし、その後に流行となっている「エピソード記憶」なる概念について、少し考えてみよう。

エピソード記憶のエピソードはその名のとおり欧米語であり、欧米の “episode”という概念を使っている。日本人の個々が抱く「エピソード」概念とは少々違っているかもしれないことを念頭に置こう。

まず三省堂の『英語語義語源辞典』で [episode] を調べてみたが詳細についてはほとんど解らない。次に研究社の『英語語義語源辞典』で引いてみた結果を以下に引用する。

[episode]
1《1678》(ギリシア悲劇の、二つの合唱の間にはさまれた)対話の段、エペイソディオン。2《1679》(詩・物語中の)挿話、エピソード。3《1773》(生涯・一国の歴史などにおける)挿話的なできごと、逸話。4《1869》〈音楽〉(フーガ・ロンドなどの)挿入部、間奏。

最後の音楽に使われる [episode] は、それまで使われてきた語義語感の応用だと考えてよいだろう。3までに共通しているのは「話」であり、意味内容をもつ。例えば卒業式のワンシーンであるとか、危険な目に遭ったワンシーンであるとか、「そういえば、あの時にあんなことがあった」とか。そうした意味内容をもつ記憶は「記」であり言葉でできている、というのがほとんどの心理学者や一部脳科学者の主張である。言語化ができるということだ。あるいは言語によって海馬あたりに格納されていると主張する者までいる。

本当にそうなのか?

私の場合、過去の記憶は言語ではなく映像で憶えていることがほとんどだ。しかもエピソードではない。話の意味内容はない。例えば、小学生の頃に通学路を歩いていた感覚や印象、記憶映像には「感じ」が最優先されている。感情ではなく感じだ。その感じは日本語のオノマトペ言語によっても表現できない。私のこころから1ミリも出すことができない。加えて言うと、入学式や卒業式など、何かのイベントのエピソードは、写真などの手掛かりが無ければ何一つ立ち上がってこない。一方で意味内容がなく、特に憶える必要も内容的感想もないような映像シーンと「感じ」については、相当な量の記憶を意志のみによって立ち上げることができる。

言語的な意味内容の記憶を立ち上げようとする際には、私の場合、映像シーンを探そうとする。そのときの「感じ」を想いだそうと、特に「場」を探す。地理的空間的な「場」や、誰と誰がその場にいてどういう感じの「場」だったかを探し出そうとする。年月は一切関係ない。その映像シーンを想いだして特定した後に、言語的な意味内容といつだったかが確認される。私と似たような記憶の立ち上げかたをする人は、他にもいると思うのだ。

そうした体験に基づくと、心理学者のいうエピソード記憶という概念は、一部の人たちの傾向に過ぎないと言える。嘘っぱちだとまでは言わないが、少なくとも普遍性があるものではない。心理学のエピソード記憶概念が妄信され、その論理が基盤となって他の論理と関連付けられてしまえば、誤った方向へ人間原理が導かれてしまう。

記憶のメカニズムそのものと、想起のしかた起こしかたは、もしかすると数パターンに分けられるのかもしれない。個人によって特性があることは明らかだろう。記憶メカニズムに個の多様性があることは、人間社会にとって歓迎すべきことだと思う。

今日の主張のまとめとして次のことが言える。現在のところ普遍性のある記憶構造と力動について、画一的に単純記憶とエピソード記憶に分けることは恣意的であり、メカニズムのほとんどは発見もされていないという見地に立ったほうが哲学的探究の可能性にひらかれるということだ。

あなたの記憶はどのように機能しているだろうか? そのメカニズムはあなた独自のものであり、他者とは異なる可能性が十分にあることを、是非再認識していただきたいと思います。

 

 

左脳・右脳の利き脳はあるのか


左脳と右脳の使われかたなどどうでもいいじゃないか?ってことで、ふつうは問題ない。特に生きることや社会生活上で問題となることはない。ところが、意外かと思うかもしれないが、哲学の認識論上では極めて重大な問題となる。なぜなら、言語の扱いと概念イメージと言語の関係が変わってくるからだ。私は、私を基準にして認識上の原理論をつくる。もし利き脳システムが本当にあって、私がどちらかに偏っているとすれば原理論は普遍性をもたないことになってしまう。

インターネット上で、左脳と右脳、利き脳を検索して調べると、玉石混交で色々出てくる。利き脳があるという意見では、単になんちゃって心理学のような薄っぺらい記事が大多数で、まれに大学教授の論文がある。利き脳は無い、迷信だという記事のほうは、科学的検証ができていないという理由だけを「無い」の根拠にしているので、逆に非科学的かつ単純な論理の誤りである。科学的検証ができていないという点では、有る無いのどちらとも言えないとなる。

ということで私は、有る可能性もあり無い可能性もあるとする。有る場合に冒頭で述べた哲学理論上で問題が生じるため、有るという仮説論を避けて通れない。

まず、脳梗塞などで左脳に損傷を受けると右半身に麻痺などの症状が見られ、右脳への損傷は逆になる。これは医学上で証明されているから科学的根拠がある。言語が左脳中心で感性が右脳中心というのも上記の脳梗塞の事例で証明されている。しかしこれは、利き脳があるかどうかの根拠にはならない。一方で、手足に右利き左利きがあるのは事実だ。ただし、利き手にかんしては幼いころに親が右利きへ修正した可能性がある。

利き手から利き脳を判別するロジックは仮説上で可能だ。但し、利き脳とはどういう脳のはたらきのことをいうのかについてと手足との関連性については、おそらく論拠が希薄となるにちがいない。

ところで、インターネット上によくある、自分の両手を目の前で組んでみて左親指が上にくると右脳インプット派であり、右親指が上にくると左脳インプット派であるという仮説はどうだろうか。論文のなかでは統計数値として傾向が出ているという。しかし人体メカニズムの論拠については探すことができなかった。同様に、自分の両腕を組んでみて左腕が上になる場合と右腕が上になる場合、前者は右脳アウトプット派で、後者は左脳アウトプット派だという。これも指の場合と同様で、統計根拠はあるらしいが人体メカニズムの論拠は無い。そもそも指がインプットで腕がアウトプットという理由も、今のところネット上で探し出せていない。

私の場合、指も腕も両方とも左が上なので、インプットもアウトプットも利き脳が右脳ということになる。占いを読むようなつもりでネット記事を読んでいると、感覚だけで生きている人、らしい。まるで論理力がないように書かれているし、整理整頓ができない散らかしっぱなしの人らしい。もしそうなら哲学原理論なんて創ろうと思うわけない。苦行になるだろうから。ところが私にとっては超がつくほど楽しい仕事である。部屋の整理整頓はちゃんとしているほうだと思うしね。

他方、確かにそうかもしれないと思うこともある。例えば、本を読もうとする際に、活字を読もうとする意志のスイッチを切り替えないと一文字も意味が理解できない。ふつうに歩いていたり車を運転したりする際に、景色は自然に目に入ってくるが文字の広告があっても標識以外の意味は無視される。飲食店内や電車内で他人同士の話に聞き耳を立てることも目的化しなければできない。他人の話も音楽の歌詞も、自然に言語の意味が耳から入ってこない。目の前の相手が話している内容を聞くふりをして、相槌を打ちながら意味内容をまるまるスルーする得意技まである。

もし私の利き脳がインプットもアウトプットも右脳であり、しかもそれが顕著であれば、概念原理論を創る際に障害となる。なにしろ認識論については、自分の認識感覚を基準にロジックを組み立てていくのが基本だからだ。

左脳と右脳がある以上、どちらかの脳の使われかたに偏りがあっても不思議ではない。男女の脳の違いも含め、科学者による脳機能の研究結果や過程にかんしてはアンテナを高く立てておこう。

 

 

理解されたい客体


人には、自分のことを他者に理解してほしいという欲求がある。正しく自分について理解してほしいと。承認欲求や自己実現欲求には他者が必ず絡む。え?自己実現欲求って自分だけのことではないの?と思うかもしれないが、自己実現というふうに自己という言葉を客観的に使っている時点で、自己と他者の二つの対立概念をつくっており他者を意識している。自己実現には外部への自己表現が含まれる。もし他者を意識しないのであれば、自己も意識しない。客観的に自己という対象を設定しない。

さて、理解されたいというのは、自分を客体的対象として見ている。主体は理解する側にあると言外に位置付けている。飲食店もホテルも洋服屋も八百屋も、店舗を構えて客を待つ。主体は客であり、店舗は客体である。客の関心を得ようとしたり客の利益になることをアピールしたりするなどして、客に金銭を支払ってもらうことによって自分の利益にしようとする。どれほど複雑に見える事業やプロジェクトも、価値観を分解すれば実は単純な構造である。

他方、人間という個人については、「心」の理解と、「頭」の理解がある。

古い日本語では「情」をこころと呼んだ。読んだではなく呼んだ。心の理解は情の理解であり、頭の理解は知の理解である。知とは、おおむね、論理に言い換えてよいと思う。情の理解と論理の理解を、表現によって為すことができるとしたのが西洋文明である。自分が考えていることや心にある感情を、表現によって他者に伝えなければ意味がないと彼らは考えた。伝達表現は言語が中心であり、絵画や音楽もツールとした。

ここで問題となるのは、「理解されたい」「正しく理解されなければ意味がない」という思想にある。文章を書くにしても、万人に対して、普遍的に正しい意味がわかるように説明しなさいということを求められる。特にアングロサクソンの文化にその思想は濃い。ゆえにアメリカの学術書には具体的事例が嫌というほど書かれており、くどい。

理解されるということに価値を置く価値観についての研究は後日にするとして、理解されなくてもよい、というところに価値を置く価値観もあるということだけ、今回の断想で言及しておく。

読者は本を選ぶ。本や著者は読者から選ばれる。ふつうは。

私はニーチェ風にそれを逆転する価値観のほうに軸足を置く。それは傲慢だという批判は勝手にやってほしい。その批判者は読者にならなくてよい。

著者が、読者を選ぶ。

そういう内容のものを、今後も書いていきたい。

 

 

リベラル・アーツの構築


今回はリベラル・アーツのお勧め記事になります。どういう人へのお勧めかというと、これから何をしたら良いのか目標が定まっていない人、テーマはぼんやりと決まっているんだけど戦略が整わない人、ひらめきでクリエイティブな仕事をしてみたい人(営利的な仕事に限りません)、他にも応用が利くと思います。特に直観を大事にしている、目の前のリアルよりも可能性を求めるタイプの人に相性が良い自己実現型戦略論です。

リベラル・アーツの淵源は古代ギリシャにあります。主に文系の3学と数学系の4科を合わせたリベラル(自由な)アーツ(思考技術)を磨くための分類分けで、自由7科とも言います。

ソクラテスやプラトンが活躍したギリシャ時代では、PHILOSOPHY(知を愛すること)が最も重要視されていました。和訳では哲学ですが、現在の哲学とは全く違っていて、学問をトータル的にフィロソフィーと呼んでいた時代です。

西洋の中世から近世にかけ哲学の領域がどんどん狭められて、現代では「主に先人の哲学を研究する専門分野の学問」のことを日本の大学では哲学と呼んでいます。本来は、好奇心いっぱいで「疑問に思って、問うて、考えること」が哲学です。ゆえにPHILOSOPHYのために、上図の7科を横断して学ぶスタイルがとられていたというわけです。(ソクラテスは修辞学に反対でしたが)

 

ダイヤモンド社 山口周著 『知的戦闘力を高める 独学の技法』を参考にリベラルアーツを考えてみましょう。

表紙をめくると黒いページにいきなり白抜き文字の言葉が目に飛び込んできます。

思うに私は、価値のあるものはすべて独学で学んだ

(チャールズ・ダーウィン)

 

コンサルタントの著者は、これからの時代は専門バカでは駄目だと言い、リベラル・アーツの重要性を解説していくのですが、とにかく解りやすい。ロジックも解りやすく、最初から最後までの筋立てが非常に解りやすく、テキストの大きさもメリハリがあって楽に読めてしまいます。「覚えたことをどんどん忘れていい(忘れるべき)」とも言っています。基本はビジネス論なのですが、ビジネス以外の「仕事」でも、趣味やスポーツにでも応用が利くと思います。

著者は独学を四つのモジュールのシステムとして組み立てます。

1「戦略」→2「インプット」→3「抽象化・構造化」→4「ストック」

各章のサブタイトルは次のようになっています。

序章 知的生産を最大化する独学のメカニズム
第一章 限られた時間で自分の価値を高める「戦略」
第二章 ゴミを食べずにアウトプットを極大化する「インプット」
第三章 本質を掴み生きた知恵に変換する「抽象化・構造化」
第四章 知的ストックの貯蔵法・活用法「ストック」

最後の第五章では、リベラルアーツを学ぶ意義として次の5点を主張しています。

1.イノベーションを起こす武器となる
2.キャリアを守る武器となる
3.コミュニケーションの武器となる
4.領域横断の武器となる
5.世界を変える武器となる

古代ギリシャの自由七科にあたる著者お勧めのジャンルは11種類。

歴史・経済学・哲学・経営学・心理学・音楽・脳科学・文学・詩・宗教・自然科学

このうちまずは、自分のテーマに応じた2種類を学んでクロスオーバーさせる。ここでのポイントは次のように書かれています。

掛け合わせるジャンルについては、「自分の持っている本性や興味」を主軸に選ぶべきで、他人が「持っているもの」で、自分が「欲しいもの」を主軸にしてはいけない。

 

ただ、全部が全部、著者の主張どおりにする必要はなく、例えば第四章には本をノート換わりにしてどんどんアンダーラインを引いたり言葉を書き込んで付箋を貼っていくことを強く求めていますが、私はそうしません。

或いは、上記ジャンルで99冊の書籍が紹介されていますが、私としては特に哲学や心理学で著者とは全く別の本を紹介するだろうなあと思いました。99冊のうち興味を惹かれたのは7~8冊でした。あくまで参考ですね。

私には6割か7割くらいの共感がちょうどいい。8割以上共感だと残りの2割以下に強い拒否反応を示すことになりますし、5割以下の共感ではストレスを抱えることになります。私はこれを友人等を選ぶときの基準にもしています。

テーマとジャンルを暫定的に決めて、リベラル・アーツのシステムを構築します。けっこう楽しい作業です。

 

ギリシャ時代と上記の本の、リベラル・アーツの考え方を基に自分でオリジナル構築したのが、前の記事『小さな志ですが。』に掲載した下のイラスト図です。

自分独自の変形リベラル・アーツです。「こころの美学を創造すること」がテーマになっていて、(大西克禮の)美学、医学系の科学、認識論と自由論系の哲学、日本思想、意識と無意識を解明する分析心理学の5つのジャンルをクロスオーバーさせる形です。日本思想の中には文学や歴史、倫理学、老荘思想なども関連付けていますし、哲学では個人主義や共同体主義等のイデオロギーを関連付けています。おそらく更に広がっていくでしょう。

私はそれほど広範囲に多くの著者の本を読みません。例えば哲学ならばニーチェとカントだけを深く掘り下げます。もちろんロールズの『正義論』やJSミルの『自由論』なども読みますがこれらは浅くて良いと思ってます。分析心理学ではユングだけを深く、ですね。

なぜヘーゲルやハイデッガーや、心理学でいえばフロイトを読まないかと言えば、独りで充分だからです。例えばニーチェを読めば、ニーチェによってギリシャ古典文献学はすべてフォローされていますし、カントやデカルトなど、19世紀半ば以前に活躍した哲学者の叡智をニーチェという天才が所有しているわけです。ユングについても同様のことが言えます。自分と相性の合う先賢を小人数で良いので深く何冊も読んで、「ニーチェならこう言うだろうな」というところまで一体化したほうがいい。『西洋流と日本流、真逆とも言える無意識への道』の記事で触れた内田樹さんが、レヴィナスだけを深く読みこんで「レヴィナスなら内田樹だ」と言われるほどまでになったと同じところを目指したい。

ニーチェにしてもユングにしても、大西克禮にしても、私とは比較にならないほどの、否、比較することが失礼なほどの天才・秀才なのですから、彼らのエッセンスを凝縮してその叡智を自分の血肉にできるのなら、ニーチェひとりの3割でも凄いことになります。

あなたも自分独自のリベラル・アーツのスタイルをつくってみてはいかがでしょうか。

 

 

明治維新後150年間の日本批判


九月の初めにあたっての所感。

来年2018年は明治維新から150年の節目の年にあたる。大きなスパンで世の趨勢を捉えることなしに、我々が本来向かうべき希望ある未来への光の道をあきらかにすることはできない。

開国、明治維新、文明開化、富国強兵、民主主義政治、日本の近代化のすべては西洋を手本にした。わが国の国民性を失いたくはないために「和魂洋才」という言葉までできた。魂は日本古来のものを引き継ぎ、西洋からは実用的な文明の才を借りてくるというものだった。

 

■ 「日本を取り戻す」と言って5年前に自民党が政権を奪い返し、バブル崩壊後の失われた20年と言われる経済停滞を打開するために、「日本人の自信を取り戻す」ということが盛んに言われるようになった。

■ 日本人は自信を持っていたというのである。エコノミックアニマルと世界から批判されながらも高度経済成長の時代を突き進み、1980年代にはジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるようになった。企業はニューヨークで摩天楼を買い漁り、国民は団体ツアーでルイヴィトン本店を占拠した。これが自信なのか。

■ ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた頃でさえ、国民一人当たりGDP(PPPベース)では最高が世界13位である。それにしても、「金をたくさん持っていて金をたくさん使えるぞ」ということに自信を持っていたとすれば、そしてその自信を取り戻そうとするのが日本政府の方針であるとすれば、なんと軽佻浮薄な国民文化なのだろう。

■ いったい国民の自信とはなんなのか。ここ数年のマスメディアはこぞって日本礼賛記事を書く。世界の人たちから見て、日本人は礼儀正しく、几帳面で、清潔で、献身的で、規律を守り、要するに民度が高いというわけだ。なぜマスメディアがそれを書くかと言えば売れるからである。自画自賛の日本人礼賛記事を読んで喜びに浸る、いい気持になる、愚かで貧しい心の国民がいかに多いかを如実に表わしている。つい最近まで中国人団体ツアーと同様の日本人団体ツアーが海外で爆買いし、はては東南アジア各国や韓国での買春ツアーまであったのにもかかわらずだ。

■ 超一流のアナリストとしてゴールドマン・サックスで役員まで昇りつめた、英国人で二十数年日本在住のデービッド・アトキンソンはデータのエビデンスを示しながらこう言う。「日本の高度経済成長は急激な人口増加による“人口ボーナス”だった」と。勤勉で有能な日本人の能力によって高度経済成長があったのではない。団塊の世代に象徴される人間の数の急増という「質よりも量」が国全体のGDPに繋がったのだ。欧米や日本の近代化に学んだ、今の中国がまさにその状態ではないか。

■ 浅薄な「経済の自信」なんか捨ててしまえ。われわれがみずからを誇りに思うことが「金持ち」であったならば、穴の中に入りたくなるほど恥ずかしい下劣な価値観だったのだ。我々に必要なのは空疎な日本人礼賛によって自信を取り戻すことではなく、真剣な自己批判である。過去に鉄槌を下すことなしに臭いものに蓋をすべきではない。過去の臭いものをつまびらかにし、厳しく自己批判しよう。そうしてから前を向こう。これからは「量よりも質」を目指そうじゃないか。

 

■ 明治維新と開国は日本人の主体的な革命ではなく、外圧によるものだった。美化してはならない。長きにわたって文明の最先端を歩むヨーロッパでは外圧という他律によって変革や革命が起きたことはない。常に内発的なものだった。

「われわれの場合には、危機は外から襲ってきたのである。危機の自覚は、具体的には黒船の到来であり、心理的には、他文明に先を越されているという恐怖感と競争意識と防衛本能であった。だが、ヨーロッパでは、危機はまず内側からはじまったのである。すでに十九世紀にボードレールやブレークやニーチェらが内発的に意識化した西洋文明の危機の主題が、ヨーロッパの一般の人々の目にもはっきり顕在化したのは、ヨーロッパを戦場とする第一次世界大戦の破壊のあとの、大規模な幻滅においてである。シュペングラーがニーチェの主題を受けて、危機の自覚を文明論の形で地球的な規模で図式化したのも、ちょうどこのときにあたる。大戦のあとの幻滅感に反響して、『西洋の没落』の出版は異常ともいえるセンセーションをまき起こした。

(PHP新書版 西尾幹二著『個人主義とは何か』)

 

■ われわれ日本人は、自主的に、主体的に、内発的に、自己批判をしたことがあっただろうか。常に世界の顔色を窺い、世界の中での日本を相対化し、「ここが日本は遅れている」あるいは「ここが日本は進んでいる」という相対評価ばかりであって、自分を軸とした自律性や主体性の欠落は現代に至るまでつづき、それは、日本人としてあるべき独立自尊の精神の障壁となっている。

■ 日本は西洋に追いつき肩を並べたのか、追い越したのか。かような他律的相対評価のなかで、「進んでいる」ことや「進化する」「発展する」ことを、深く熟考することもなく手放しで「是」とし「善」であると盲信してはいないか。同書のなかで西尾氏は、ヨーロッパでは「進んでいる」ことなど価値として歯牙にもかけないと述べている。

■ ヨーロッパから日本人が学んだことは、合理性であり効率性であり論理性であるが、その表面だけを物真似しただけだ。現代日本の世俗的価値観をみれば、富や名声を得ることが成功者のモデルであり、その根っこに哲学的思惟など一片のかけらもない。「生」と「幸福」、「生」と「成功」を繋ぐ最も重要で根源的なもの、ロジカルな哲学的動機がない。あるいは自己正当化のために行っている後付けの理屈しかない。哲学的に根本から考える習慣を身に着けようじゃないか。

「いわゆる“和魂洋才”というモザイク的文化観は、西洋への劣等感がそのまま優越感にすりかわる、例の「開国」か「攘夷」かという日本人の心理的パターンのはしりをなしたものである。それは西洋近代に自己を合わせて、同化的にこれを受け入れるか、それとも、この異質の文明に抵抗するために自分のこれまでの価値観を消極的に死守するか、という平面的な次元の問題にすぎず、受け入れるか、防衛するか、あるいはその両方をどうやって折衷するかの問題であって、西洋近代を批判的に摂取するという姿勢ではありえなかった。(中略)明治の先覚者たちが犯した過ちは、西洋にただ「才」だけを期待する実用主義か、さもなければ西洋の「魂」をも無批判な連続性において、自己同化的に受け入れるか、若干の違いはあるにしても、いずれにしても「洋魂」との対決を欠いていたことでは共通している。」(上記同書)

「ニーチェやキルケゴールに代表される内面的な危機の自覚も、マルクスやエンゲルスに代表される社会的な危機の自覚も、すでにヨーロッパ文明の土台骨をゆさぶりはじめていたのであるが、単に「外発的」な文明への恐怖や競争意識に発しただけの日本の「近代化」の出発は、ただひとえにヨーロッパ文明の堅牢さ、雄大さ、華麗さに幻惑され、その奥にあるものを見とどける余裕をまったくもっていなかったのである。」(上記同書 )

 

■ ニーチェやキルケゴール、スペインのオルテガのように、その時代の価値観、祖国の価値観を自己批判できる強さは日本人には無かった。現代でもご覧のとおり、近代的な価値観である、「自由」や「平等」、「民主主義」、「資本主義経済」などに無批判であるばかりかこれこそが「善」であると、信仰のごとく反知性的に自己正当化しているのではあるまいか。「現代的自由」や「現代的平等」に対し、根源からのロジックをもって真っ向から自己批判できる日本人など、現代ではついぞ見たことがない。

■ 明治維新から百五十年間をトレースして、日本の国民性をしっかり批判することなしに前へは進めない。近いところで言えば、高度経済成長期の自己批判の欠如、91年の不動産バブル崩壊、08年の金融バブル崩壊の自己批判となかなか立ち直れないことの自己批判の欠如、少子高齢化を筆頭に政治経済が悪いからだと社会に責任を押しつける自己批判の欠如、どうしてこれほどまでに個人が甘やかされた社会になったのか。厳しさを取り戻そうじゃないか。

 

■ 好きなことをして生きてゆけばいい、楽しいことをして生きてゆけばいい、学校が嫌なら行かなくていい、苦痛なこと嫌なことからは逃げたらいい、男同士でも女同士でも結婚すればいい、なんでも自由だ。これが我々の求めた自由な社会像なのだろうか。寛容な社会像なのだろうか。否、この自由の正体は「不自由」だと断ずる。

「自由に自由を重ね、無制限に自由を求め、なおそれに満たされず、いつも自由に憧れているのは、快楽の原理である。快楽には反覆があるのみで、発展はなく、結果的には、不自由の一形式でしかない。(中略)完全な自由は、けっして自由とはいえない。束縛や桎梏(しっこく)を打ち破って自由になったというだけでは、人間は自由にはなれない。自由があり余って、不自由に陥れば、人間はいっそうの自由を求めて、自由を放棄し、不自由な観念に隷属したがる。」(上記同書)

 

■ 引用している 『個人主義とは何か』 という書は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』というタイトルで出版された西尾幹二の処女作である。副題は『人は自由という思想に耐えられるか』となっている。16万部のベストセラーとなり35年後に絶版になった。2007年に『個人主義とは何か』というタイトルで48年前の書を復刊し、最後に第四章『日本人と自我』が加えられている(現在は欠品中)。現代価値としても内容は全く色褪せていない。現在は80歳を超え好々爺の西尾氏であるが、1969年当時は33歳。まさに俊才のデビューであった。いったいこのハイレベルの内容の書を、33歳で書けるものなのか。上記を正しく解釈できる現代人読者はどれくらいいるのだろうか。いや、上記の自由と不自由にかんして、深く掘り下げ熟考することさえ出来ない現代人が多いのではなかろうか。

■ パリを訪れた人ならシャンゼリゼ通りや中心街の古い建物が、低層ビルとして百年以上のあいだ補修され続け、今も堂々と使われている街の景色に見惚れたことがあるに違いない。フランス国内に限らずヨーロッパでは古い建物の評価が非常に高い。前衛的、先鋭的な芸術の数々を生み出してきたフランスの「自由」は「堅牢な保守」の上に築かれている。否、「堅牢な保守」の上でこそ「自由」がいきいきと躍動する。

■ おそらく日本人は、「生」と「自由」を哲学によって繋ぐことができないだろう。表面上の自由を目指し、自由となったことを喜んでいるだけではないのか。「自由」とはあなたにとって何かを問おう。「自由」はあなたの生のどの位置を占めているのかを問おう。その問いに答えようとしたとき、自己批判を伴っているか否かを問おう。

 

■ 日本に対する自己批判とは、朝日新聞や東京新聞がやっているような政府批判、否、韓国や中国の立場からの政府攻撃ではもちろん無い。かつては、戦前生まれの左派知識層には確固とした日本批判、日本の国民文化批判ができる力量の賢人がいた。右派右翼の人たちよりも愛国心に満ちた左派リベラルの文人がぞろぞろいた。今や日本のリベラルと言えば、社会主義的立場に寄った政治家やその徒党を表わす概念に堕落した。

■ リベラルとは、リベラリズムすなわち自由主義のことを言う。現代日本人で自由主義社会の恩恵を受けていない人などただの一人もいない。リベラルを否定することなどできない筈だ。社会が自由を保障していることに無自覚となり、自由に対して無責任となってはいないか。

■ 太古の時代。人類が群居性活を始める以前、個のヒトには完全な自由があっただろう。弱肉強食で凶暴な肉食獣にヒトが捕食されることと引き換えに完全な自由があったに違いない。弱者だったヒトが生命を繋ぐために、その自由を大幅に制限し、人類は共同体生活を始めた。共同体での掟を作った。人類文明の始まりである。安全で安心な共同体生活を営むためには、共同体の秩序を保持しなくてはならない。個人が負う最低限の責任である。

■ 現代でもそれは変わらない。ところが共同体秩序を保持する責任を忘れ、国家共同体が秩序の上の自由を国民に保障しているからこそ自由主義社会の恩恵を受けられていることを忘れ、自分勝手に好きなように生きればいい、楽しく自由に生きればいいとは何事だ。戦争に巻き込まれて国家の安全保障が揺らいでも、自分だけが助かりたいために戦わずに逃げると宣言するような男まで今の日本にはいる。自由に対する責任、自由を支える秩序に対する責任をしっかりと背負おうじゃないか。それが国民主権ということだ。

 

以上は私個人の自己批判もしくは過去の自己批判でもあり、または内心に無自覚に潜む無責任性へのくさびでもある。

そして前を向く。

 

 

 

「見えない」ことは欠落ではない


「見る」ことそのものを問い直す、新しい身体論

このコピーライトいいと思いませんか。下記の本の帯に書いてあることばです。さて、3記事連続で書いてきましたが今回をとりあえずのラストにします。

前の記事からのつづきです。

 

伊藤亜紗著 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 

視覚障碍者に限らず、障碍をもっている人に対して私たちの社会は、「同情して接するべきだ」という空気を作りだしていると思います。これは決して間違いだとは思いません。けれど、実際に障碍がある人のなかには、同情されたくない、普通の人と同じように接してほしいと思っているが決して少なくないと、取材を通して伊藤さんはそう述べています。

むしろ、同情の空気が作りだした障碍者優先社会は、モンスター障碍者をも作りだしてきました。有名人の中には 「障碍者なのだから優先されて当たり前だろう」という傲慢な精神に陥った人もいました。

障碍ではありませんが、行き過ぎた人権主義は被害者モンスターを生みだしました。何かと言うと差別だ、人権だ、権利だ、自由だ、平等だと「叫ぶ」人が目立つようになり、ふつうはそんなモンスターに絡まれたくないわけで、不自由で形式主義的、事なかれ主義的、そうした閉塞した空気が現代社会を覆っているような気がしてなりません。皆さんはどう感じられていますか。日本に限ったことではなさそうですが。

伊藤さんは、「障害とは何か」というテーマで次のように述べます。

「障害者」というと「障害を持っている人」だと一般には思われています。つまり「目が見えない」とか「足が不自由である」とか「注意が持続しない」とかいった、その人の身体的、知的、精神的特徴が「障害」だと思われている。

しかし、実際に障害を抱えた人と接していると、いまだ根強いこの障害のイメージに対しては、強烈に違和感を覚えます。端的にいって、こうした意味での障害は、その人個人の「できなさ」「能力の欠如」を指し示すものです。「できなさ」や「能力の欠如」だから、触れてはいけないものと感じられる。

(中略)

従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。

(中略)

「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや、「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。

 

そのとおりですよね。すっきりと説明してもらっています。

でもひと昔前、と言っても私が子どもの頃そうだった記憶があるので半世紀も経っていないと思いますけれど、(あえて差別表現のことばで書きますが)「かたわ」の人として障碍者はレイシズム的に蔑視されていたのです。身内に障碍者がいれば世間に隠そうとした。そういう社会だった。

今もそういう目で見る人も中にはいるかもしれませんが、非常に少数でしょうし、障碍者にやさしく同情的になったことは社会の進化だと思います。そこからさらにステップアップして、「社会的生活に不都合があることを障害と呼ぶ」という意識への進化は、人格の平等性に基づく自然なふれあいだと考えます。ですので、もっとフランクに付き合っていければいいなと思います。

私が今回3記事にかけてこの本を取り上げたのは、正直に言ってしまいますが、福祉的心情はまったくありませんでした。ずいぶん前、もう何十年も前から、全盲の人の世界ってどんなんだろうという好奇心がずーっとあって、盲学校への訪問に機会を見つけて行きたいなと思っていたのです。なので伊藤さんには大感謝です。

 


 

同書からの派生で、情報を求めるのか意味を求めるのか、カクテルパーティー効果(大勢でざわついてる中から目的の人の声だけを聴くことのできる人間の能力)による「注意」というテーマができた。単なる情報ではなく意味を求める。それはフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの「注意的再認」に当たるのではないか(運動によって情報を自然に取り込むのは「自動的再認」)とも考え、ベルクソン著『物質と記憶』を読み始めました。

知覚、記憶、想起、という人間の内部で起こっていることについて、ベルクソンの論からヒントを得、記憶とは何かについて閃いたものがあり、心の哲学の構想がなおいっそう楽しくなりました。

偶然かどうかわかりませんが、驚くことに、ベルクソンは視覚を失った場合について同書の数か所で言及しているのです。120年前の時代ですから視覚障碍者についての研究は進んでおらず(西洋でも差別されていたのかもしれませんが)、ベルクソン個人の想像です。以下に引用します。

私は、空間のなかに多数の対象を知覚する。各々の対象は、視覚的形式である限り、私の活動を促す。

私は突如として視覚を失う。おそらく私は、空間内で同じ量、同じ質の運動をなおも所有している。けれども、これらの運動は、視覚的印象に連繋させられることはもはやありえない。今後それらは、たとえば触覚的印象に従わねばならなくなるだろうし、おそらくある新たな配列が脳のなかで描かれるだろう。(ちくま学芸文庫版 アンリ・ベルクソン著『物質と記憶』)

 

認識論について考究してきた数多くの哲学者、カント、ハイデガー、ウィトゲンシュタインらも、「自己からの視覚的世界観」が前提にあったのではないか。ベルクソンの推測は外れました。視覚障碍者は視覚を失った後も、先天的全盲であっても、視覚的印象で世界を表象しているのです。しかも、特定の視点に固まらない全方向的な俯瞰的空間感です。

視覚は私たちに最も多くの情報をもたらす代わりに、先入観を固めてしまうデメリットがあるのかもしれません。

最後に伊藤亜紗さんのことばを引用します。

 

見えない人の頭の中のイメージは、見える人の頭の中のイメージよりも「やわらかい」のではないか。そう感じることがあります。

見えるとどうしても見えたイメージに固執しがちですが、見えない人は、入ってきた情報に応じて、イメージを変幻自在にアップデートできる。つまりイメージに柔軟性がある。そんなふうに思えるのです。

 

「見ること」に依存すればするほど、知性や感性が柔軟にはたらかなくなる可能性、あるかもしれませんね。今後の良いテーマになりそうです。

そして、「見えない」ことは欠落ではなく、別の世界の「事実」を体験していることと言える。

 

 

五感という分類常識を忘れてみる


前の記事では、伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』第一章「空間」から、目の見えない人の空間感はハイレベルな三次元世界観だということが分かってきたことを書きました。

この本が注目されたのかされなかったのかは分かりませんけれども(現在2刷)、センセーショナルな発見だと私は思います。なにより伊藤さんの観察力が素晴らしい。子どもの頃から彼女は小さな生物の観察を続けてきたようで、東大では生物学を最初に専攻しています。三年生から美学へ文転したとあります。彼女の繊細な観察力は、細かな観察を大の苦手とする私と正反対で、ちょっと羨ましいです。

一冊読み終えてからまた何度も途中を読み返しているのですが、視覚障碍者の視覚的世界観の構築は、「他」と「他」の関係性によって組み立てられているんですね。ふつう私たちは「自」から「他」を認識して解釈する、「自」「他」の相対的空間観が中心です。日の出には太陽が昇ってくる感覚ですよね。

じゃあ、視覚障碍者の方々は自分が今いる視点からの感覚はないのかと考えてしまうのですが、それは「注意」という感覚らしいです。つまり内的世界は三次元で自由に俯瞰している世界観があって、その中に自分を歩かせていて、その歩かせている自分の進行方向に注意を向ける感じだと思います。

※「注意」で思い出したのがフランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)の「注意的再認」という言葉です。次の記事では、認識論(彼独特のイマージュ論)を扱った著書『物質と記憶』を少し覗いてみたいと思います。

 


 

伊藤さんは、DID(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)という真っ暗闇を体験できる施設に何度か行かれています。その感想が書かれている箇所があるので引用してみましょう。(現在、同施設は体験一般5000円/完全予約制)

第一章で、見えない人は相対的に道から自由である、という話をしましたが、慣れていないと、本当にどっちに進んでいいのか分からない。どっちが壁でどっちが段差だか分からないということは、自分の進むべき方向を示してくれるものがない、ということです。

進むべき方向が分からないということは、そこにあるはずの物理的な空間と、自分の結びつきが不確かになるということです。ちょっと極端な言い方をすれば、自分が体を持った存在としてこの空間の中にいるという実感が持てなくなってしまう。

もちろん、声を出すと仲間が応えてくれるので、自分が存在しているということは確認できます。けれどもそれも、実体のない魂同士の会話のように聞こえてしまう。存在はしているけれど、体がなくなったような気分です。透明人間になるってこんな感じなのか?

 

自分の体がなくなる感覚のようです。

私も体験してみたくなったので、機会をみつけて行ってくることにします。視界がない、視点がない世界に慣れている視覚障碍者の方が、上記のDIDで道案内してくれるそうです。

 


 

さて、視覚障碍者といえば「点字」を触って意味を解釈することで知られていますが、点字識字率は12%程度ということです。思っていたよりも全然少ないです。そして点字を触って意味を解釈する時に、彼らは「見ながら読んで」いるそうです。以下に引用します。

生理学研究所の定藤規弘教授らによれば、見えない人が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分、すなわち視覚皮質野が発火しているのだそうです。

つまり脳は「見るための場所」で点字の情報処理を行っているわけです。脳の可塑的な性格は近年注目を集めていますが、見えない人では視覚的な情報を処理する必要がなくなるため、視覚野が視覚以外の情報処理のために転用されるようになるのだそうです。(晴眼者ではこうしたことは起こりません)

 

点字を触って読んでいるのですが、触る=見る、という脳の回路変更が行われているようで、凄いことだなあと思いました。

 


 

私たちは常識として「五感」という知覚の分け方を信用しています。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚ですね。

でもこれって本当でしょうか?本当に分離しているのでしょうか?

他の人はどうか知りませんが、私は文章を目で読む時に、耳で聞いています。どういうことかというと、例えば今回取り上げた本を読む時には、伊藤亜紗さんの声で聞いているのです。伊藤さんがご活躍されている動画がYouTubeにあるのでそこから声の質や口調、ちょっと早口な感じ、顔の表情を推測して、本のなかで話を聞いています。

ニーチェを読む時には、ニーチェの声は知りませんので顔から男性的なちょっと太めの声を連想して、本を読むという感覚ではなく文章を聞いています。ハンナ・アーレントの翻訳は常体の「だ・である」調で書かれていますが、落ち着いたアルトの感じの女性の声で聞いています。ブロガーさんのブログを読む時も、LINEで子どもたちとやりとりする時も、文章は自動的に声に変換され、音として聞いているのです。

みなさんはどうなのでしょうか。

音楽を聞いて色が見えることをシナスタジアと言いますが、それは私にはありません。ですが音楽を聴くときには、言葉で表現できない聴覚以外の感覚が何かをインプットしているという不思議な感覚があります。耳が聴いているのではなく全身の細胞が聴いている感じです。振動の波動などではなく。

 


 

人間のご先祖さんを辿れば海中生物で、目がありませんでした。最初にできたのは口ではないかというのが通説だと思います。すべては触覚(皮膚感覚)から始まったと言えるのです。私は味覚も触覚の一部だと考えています。

視覚で凍てつく冬の映画を見ていると寒くなってきますし、聴覚でガラスの音を想像したときに鳥肌が立ちます。梅干しやレモンを想像すると唾液が出てきます。

「五感」という常識的分類をせずに、自分から離れているものは視覚と聴覚によって触れているというふうに考えることができる。

最後に、「触れる」ことについて伊藤さんが述べている部分を引用します。

 

たとえば子どもや恋人と手をつないでいるとき、感じるのは相手の手ではなくて、その存在全体です。相手の気持ちがどこに向いているのか、どんな気分なのか、具体的に感じることができるかもしれません。

いや、「感じる」というと対象化して距離を取るようですので、ちょっと違うかもしれません。気は流れるものと言われます。

相手と自分が気の流れを通して一つになる。気持ちが通い始める。

電池の極に電線をつけた瞬間に電気が流れるように、手と手、あるいは唇と唇が触れ合った瞬間に、流れ始めるものがあります。

 

 

目の見えない人の空間感


今日の記事は自分で言うのもなんですが、注目記事です。人によっては後頭部をハンマーで殴られたようなショックを受けるかもしれません。(中にはその本読んだよ~という人もいらっしゃるでしょうけれども。)

2月6日に書いた記事(これも人気記事でした) 『絶対的空間感と相対的空間感』 のなかで私は、方向音痴の人は絶対的空間感をイメージできないのではないかと書いたのですが、私の周囲の人に聞き込み調査をした結果、とりあえずはそのとおりでした。(カーナビが無い時代に)自動車を運転して目的地に到着できない、地図と目視の動的混合ができない。地図を読もうとするときに、地図を動かして自分目線の方向を上にするという特徴も共通していました。自分が動く場合に、空間の方を固定したイメージを作れないようです。

ですが逆に私は、「動的メタ認知をイメージできない」という世界をイメージできないのです。お互いさまなのです。

そして同記事の中で、次のように私は書きました。

盲目の人の立場になれば、彼らは脳内で自分が今いる周囲を「相対的」空間イメージとして感覚していると同時に、「絶対的」空間イメージとしても感覚しているとしか思えない。機会があれば聞いてみたいと思う。

 


 

自分で聞くことはまだできていませんが、同じように「全盲の人の世界観てどんなんだろう」という好奇心を持たれるかたがやはりいて、そのかたが取材・考察して著した本を数日前に見つけ手にしました。

予想どおりと言いますか、予想以上です。

結論から言いますが、全盲の方の世界観は、自分自身を起点としていません。世界は自分がいる位置から開闢していないということです。しかも驚くべきは、なおかつ、視覚的世界観をイメージしているのです。

 

光文社新書版『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

序章 見えない世界を見る方法
第1章 空間
第2章 感覚
第3章 運動
第4章 言葉
第5章 ユーモア

著者 伊藤亜紗(1979-)

東京大学文学部卒、同大文学博士、専門は美学、現在は東京工大リベラルアーツセンター准教授の職にあるかたです。

美学とは何ぞやと思うかたのために序章より伊藤さんの言葉を引用します。

美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。

右脳で展開されている世界を左脳で語る、ようなイメージだと私は受け取りました。難しいジャンルだと思います。

視覚障碍者のかた数名とその関係者のかたがたに密着取材しています。視覚障碍者のためのワークショップやフォーラムにも積極的に参加されています。

序章にある次の言葉は特に強調しておきましょう。

視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。

視覚障碍者のかたがたへの礼(尊重)ですね。理解に近づくことはできても完全に理解することはできないという心得だと思います。

 


 

つづけて同書 第1章「空間」より引用します。

私と木下さん(※視覚障碍者のかた)はまず大岡山駅の改札で待ち合わせて、交差点をわたってすぐの大学正門を抜け、私の研究室がある西9号館に向かって歩きはじめました。その途中、十五メートルほどの緩やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。

「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」。

私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。なぜなら木下さんが、そこを「山の斜面」だと言ったからです。毎日のようにそこを行き来していましたが、私にとってはそれはただの「坂道」でしかありませんでした。

(中略)

人は、物理的な空間を歩きながら、実は脳内に作り上げたイメージの中を歩いている。私と木下さんは、同じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。

 

私は、全盲の人というのは相対的空間観(自己視点)と絶対的空間感(俯瞰視点)が半分半分くらいなのかなと想像していましたが、なんと、ほぼ絶対的空間感だけをイメージしており、それも晴眼者(視覚に障碍が無い人)が想像しえないハイレベルの三次元空間感が彼らの世界なのでした。

視覚に入ってくる光景を私たちは立体的に脳で変換していますが、実際には表面上の一面しか見えておらず、見えているモノの裏側や隠されている残りの大部分を想像によって補い立体化しています。立体的リアルがそこにあるように思い込んでいるだけです。

視覚障碍者の場合は、「自分はイメージを作っている。」という自覚があるのです。ここの柔軟性が決定的に違うのだと思います。

 


 

続けて引用します。

たとえば「富士山」。これは難波さん(視覚障碍者のかた)が指摘した例です。見えない人にとっての富士山は、「上がちょっと欠けた円すい形」をしています。いや、実際に富士山は上がちょっと欠けた円すい形をしているわけですが、見える人はたいていそのようにとらえていないはずです。

見える人にとって、富士山とはまずもって「八の字の末広がり」です。つまり「上が欠けた円すい形」ではなく、「上が欠けた三角形」としてイメージしている。平面的なのです。

(中略)

三次元を二次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつです。「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。(中略)もちろん、富士山や月が実際に薄っぺらいわけではないことを私たちは知っています。けれども視覚がとらえる二次元的なイメージが勝ってしまう。

(中略)

見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。

だとすると、そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけなのではないか、という気さえしてきます。

(中略)

なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間や物を見るか」です。

 

上記の記述に続いて、視覚障碍者のかたがたには特定の視点がなく、自由自在にイメージしていること、イメージしたものに表と裏はなく、驚くべきことに建造物(書では太陽の塔を例に挙げています)の内部と外部も等価としてイメージしていることが述べられています。

表と裏が無いというのは何となくイメージできます。内部と外部が等価というのはなかなかイメージしづらかったのですが、スケルトン構造のイメージではないかと思います。

もちろん、視覚障碍者としてひとくくりにはできません。著者の伊藤さんも慎重に書いています。先天的に全盲のかたと、病気や事故によって全盲になってしまったかたの違いは大きいでしょうし、イメージ自体も個別に違っていて当然だと思います。なにしろ晴眼者であっても、私とあなたではイメージしている世界の数や世界観の質感、時間感、情感、世界観の混合の仕方なども違ってあたりまえだからです。

つまるところ、「人は~」として人間をひとくくりにして普遍的に、認識論や存在論を語ることはできない、或いは限界が浅いところにあるということではないでしょうか。どれほど有能な哲学者や科学者でも、自分のイメージ上でしか観念世界を語りえない。認識メカニズムの理解は個人的経験に基づく仮説の域を出ることはない。

晴眼者にとって天動説(自己視点)のイメージは簡単ですが、地動説(三次元空間の俯瞰視点)の今まさに動いているイメージの世界観(自分もその中で動いていて、世界も動いている感)は、個人差が大きいのではないかとも思います。メタ認知の自他の差があるということについては、互いに認めあうべきだと思います。

もう一度引用しておきます。

私と木下さんは、同じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。

 

なお同書の今回の引用は、第1章の「空間」です。(続きで気になるところがあればまた記事に書くかもしれません)

第1章の小テーマでは他にも魅力的な内容がたくさんあります。
「私が情報を使っているのか、情報が私を使っているのか」「踊らされない安らかさ」「視野をもたないがゆえに視野が広がる」「視覚がないから死角がない」 など。

 


 

晴眼者が情報をインプットする場合、その五感感覚は視覚によるものが80~90%だそうです。全盲のかたがたは私たちよりもはるかに少ない情報量で世界を把握していることになる。想像力が抜群だということです。創造力の根源は想像力ですので、全盲のかたがたはクリエイティブの才能が豊かなのかもしれません。なかなか発掘されていないだけで。

私たち晴眼者の世界では、文明の発達によってテレビや映画、最近では3DどころかVRの世界までをも科学が作りだしました。機械はどんどんクリエイティブに進化していくのと反比例して、人間の想像力はどんどん劣化していくのです。VRを見るよりも、映画やテレビを鑑賞するよりも、小説を読んだ方がイメージを自由に飛翔させることができ、はるかに想像力が身につくのにもかかわらず、それをしない現代人が増えているように思います。

逆に言えば、目を閉じてクラシック音楽でも聴きながら、架空でも現実でもよいので世界観をイメージし、物語を映像的に脳内だけで創作してみる。視覚主体の思い込みからの自己解放、そこから何かが生まれてくる可能性がある。この本を読んでいてつくづくそう考えるようになりました。

 

心が最強の力となる日


トランプ大統領がアメリカに混乱をもたらしている。彼の価値観は経済力こそがパワー。オーストラリアの首相との電話会談で悪態をつき喧嘩をしても、ビル・ゲイツの主張には耳を貸し友人となり、ソフトバンクの孫さんにも愛想を振りまく。トランプは金の力で権力を得て、金を国民にばらまくと約束をし、彼にとっての世界観は金による階級社会である。ゆえに、ゲイツや孫などのIT企業の金にトランプはひれ伏す。

戦後のアメリカはユダヤ財閥の金で政治が動き、一時的に左派リベラルの「情報力」が対抗権力にのし上がったと思われたが、また金が最も高い価値として政治をも動かし最強権力に戻った。ITでの成功者はITだけの成功者であって、金を持っているだけなのに政治を動かしますます大金をキープする。

経済がまわるということは、人間社会にとってなくてはならないことであることは言うまでもない。金は善でも悪でもない。ただの交換道具である。この交換道具が人類最強価値となった社会に今は有るというだけだ。

 

話は変わるけれども、多くの人たちは現実に執着する。だから、今なにが世界で起きているのか、今なにが自分の周りに起きているのか、自分の仕事のこと家族のこと、自己実現のこと、そうしたニュースや価値に強い関心をもつ。

常に「今、ここ、自分」が最も大事なのですね。

目の前にある現実が大事で今得ている権利を守ろうとし、消費税が上がるとなれば反対する。徴兵制が復活することに反対する。グローバル経済によって農作物の輸入が自由化されることに反対し、移民推進政策に反対する。自分が死んだあとの100年後に生きる子どもたちのことなど考えない。

 

けれど、「未来、地球、人類」を時空的に俯瞰し、どういう流れで200年後、500年後の地球や人類、生物がどうなっているか、その程度はイメージしたほうが良いのではないか。

そうして俯瞰すれば、トランプ大統領という4年間の実験は、アメリカにとってこれ以上ない、むちゃくちゃ有意義な試験期間となる可能性がある。「これじゃダメだろ!」という声は既に上がっているけれど、じゃあなんでトランプが選ばれたのかという分析と反省は、まだ同時に声として上がってこない。行き過ぎたリベラル(自由・平等・グローバル)の反省があって初めて、トランプを批判/否定できる。

 

このブログのサブテーマは「5000年後に暮らす世界中の子どもたちの笑顔のために」です。私は常に今後5000年間をイメージしてます。普通の人から見たらトンデモな人で頭おかしい変な人と思われてもしかたない。でも私にとってそんなのは全く関係ない。

ふつうは未来という暗闇に向かって、懐中電灯で足元を照らしながら慎重に歩いてゆくんだろうけど、私は直感で「あっちだ!」という決めた方角へまっすぐ歩いてゆく。

少なくても5000年後には、人間において、心が最強のパワーとして社会を動かすエネルギーになっていると、それが「あっちだ!」の方角だと私はそう信じています。

数十年や数百年では、金が最強の権力という構図を変えることは難しいと思う。でも1000年、2000年という時の流れがあれば変えられると思う。

 

人類は3000年前からとっくにそのことに気づいていたんです。今はその面影もない古代中国では、人倫に最も高い価値を置いていました。日本人は中国から儒学と仏教を輸入し、もともと日本にあった人の心情に重きを置く国学と調和させて心の文化を築いてきました。

近代に入り欧米の影響を大きく受けた。工業化の産業革命、教育革命、そして近年では情報革命が起きた。コンピューター社会、ロボット社会、そうして心の価値が失われていった。いや、過去形ではなく現在進行形です。

でも、少数の人は気づき始めているのではないでしょうか。

情報よりも、テクノロジーよりも、お金よりも、人間にとって一番大切なのは心の価値だってことを。

人類は大きく回り道をしているだけだと思うのです。

3000年前の価値観の確認作業を、今までずっとしてきた。

まだ、あと2000年くらいかかるかもしれないけれど、2017年の現代に生きるみんなの力で、それをちょっと早めることはできないものでしょうか。

 

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。(岩波書店版 志賀直哉著『志賀直哉全集第10巻』)

 

「人間ひとりの力などあまりに無力」と嘆くよりは、大河の一滴としての矜恃をもって、陸地がまったく見えない大海原のなか、真っすぐ船をこいでいくことにします。才能のない私にはそれくらいのことしかできないので。

自分で書いて自分を励ましています。

がんばるぞ。

 

アビリティー・スキル・テクニック


現代の経済社会では仕事における「能力主義」がよく言われます。この「能力」はスキルを指すことが多いです。でも人間が生きていくために、社会生活をする上で本当に必要な能力は、アビリティーであるように思います。ロボット化が進む社会では、仕事においてもスキルよりアビリティーが求められるようになるのではないかと。

能力や技能を表現する英単語には、アビリティー(Ability)、スキル(Skill)、テクニック(Technique)があって、最近の日本で最も使われているのがスキルです。「スキルを磨く」というふうに使われていますよね。テクノロジーに光が当たっている現代はなおさらです。で、テクニックを磨くこととどこが違うんだろう。また、あまり使われないアビリティーとはどういう種類の能力を指すのだろう。今日はそのオリジナル的な探究です。

 

「能力」は四層に分けられるのではないかと考えました。

アビリティーとは、その人間全体に帰属する表現かと思います。たとえば判断力ですが、これはスキルとは言いませんよね。その一つ下層にサブ・アビリティーというカテゴリーを作ってみました。たとえばメイン・アビリティを創造力とした場合、サブ・アビリティーには、発想力、連想力、表現力、企画力、構想力、想像力などがあって、これらもスキルと呼ばれることはほぼありません。

サブ・アビリティーの下層にスキルが位置します。例えば、創造力―表現力の下層には、文章力や画力、創作力、演奏力、演技力などがあって、これらスキルについては努力することによって能力を獲得できる。学校で教えられるのはスキルについてです。上の例でのスキルがアップすると、表現力が豊かだねと評価されるようになる。でも、文章力や演技力のスキルが上がっただけでは創造力にはまだまだ足りません。発想力や構想力などが必要になってくる。

 

一方でスキルアップをするためには、細かなテクニックを覚えていくことになります。ここが能力の最下層。文章力や画力などを想像してみれば、なにがテクニックにあたるのかはすぐにわかるかと思います。たくさんありますよね。これは逆も言えることで、テクニックを無意識のうちに真似ていくことで自動的にスキルが身についていた、なんてこともあります。子どものころから純文学に触れて多くの書物を読んできた人は、語彙力が高いですし文章表現力も豊かです。(ここで、ああ、人生やり直したいと思った方は私と同類です、苦笑)

表現力に難があっても頭の中でイメージ構築できていれば、他者や社会から認められなくても創造力が高い人はいます。幼児なんてまさに、表現力下のスキルはないけどクリエイティブです。

 

で、何を言いたいのかというと、言いたいことがまだ考えついてない段階なのです。すみません。無目的的に、ただ「能力」を分解し分析してみようと好奇心が湧いただけで、何の役にも立たずでごめんなさい。

めげずにもっと書いてしまうと、メイン・アビリティには判断力・創造力のほかに、思考力・実践力・適応力・情感力・統率力・補佐力などがありそうだなと(補佐力って新しいでしょ?)。

ずらずら~っとアビリティやスキルを並べていくと、愕然とするほど自分に足りないものばかりで困るのですが、欠けてる能力をまともにしようと頑張っているうちに時間切れで死んでしまいそうなのでやめておこうと決断しました。(決断力高いです、苦笑)

人間の意思決定には価値観だけでなく、能力もかなり影響を与えていますよね。そして柔軟性と硬直性、消極性と積極性、気が短いと気が長い、などなど個人の気質(キャラクタリスティック)は、能力にも価値観にも意思決定にも影響を与えています。

 

死ぬまでにやりたいことは、上記に書いた認識→意志論のほか、脳科学での左脳・右脳・大脳辺縁系などとの関連性、生理学での内分泌系、遺伝学でのエピジェネティクス、深層心理学、心の哲学、地球一体論、人間の情緒性、このあたりをなんとかして幾つもの連立方程式に組んで、それを解き明かし、ひとつの数式のようなもの(かなり複雑になるとは思いますが)にすることです。まだまだ道のりは長い。

 

 

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