法律はなぜ必要だと思いますか。否、なぜ必要になったのだと思いますか、と聞いた方が良いかもしれません。
法の成り立ちは、共同体にとっての「悪」をその集団の構成員(もしくは長)が決める「掟/秩序」という側面(抑止も含)と、争いを「解決」するための側面(応報感情も含)の二つが端緒です。
「最終判断を法に委ねる」という趣旨が法治国家の理念になります。
ここでは、「個人がしっかりと善悪の判断をし、共同体生活をする」が先にきます。
ところが最近では、「法で悪と決まっているのだから、法に触れずに共同体生活をする」というふうに考える社会になってしまいました。
違いは一目瞭然だと思いますが、「法で悪と決まっている」を根源価値とするのならば、その国民は法の奴隷であり、その国家は法圧国家であります。
なぜならば、自分の知性で善悪を考えることなく、法で悪と決まっているからと、頭脳を使わずに反知性的に決めつけてしまっているからです。一方で、国家は法によって従属圧力をかけていることになる。法の威嚇による抑止目的が過剰に表れているのです。
これは、数学の公式がどのようにして成立しているのか、自分で公式を作る努力を一切せずに、単に答えを出すために公式を丸暗記する、テスト結果偏重主義の教育と同じです。テストができない子ども=悪、の圧力。
こうした反知性の法圧国家は国を滅ぼします。
古代中国哲学『老子』の第七十三章の最後に有名な言葉があります。
天網恢恢疎にして漏らさず
上記は『魏書』編纂上の誤記とされ、本来の『老子』は以下になります。
天網恢恢疎にして失わず
この訳のほとんどは以下となっています。
「天の網は広大に拡がっていて、その網目は粗いように見えるがそうではなく、悪人・悪事を決して漏らさない」
私はこの章の全文(特に「而」の使い方)と、第五十七章、第五十八章、第五十九章、第六十章、第六十八章、第七十四章、第七十五章の意図するところを総合的に判断して、次のように意訳しています。
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」
天の網が一点の悪も見逃さないような細かさになってしまえば、人は自らの心で悪を判断しないようになり、強度に威嚇された人心は閉塞感に苛まれ、暗鬱とした世の中になってしまうと。
『老子』の良さは「水」を象徴として、柔らかくどんなものにも姿を変えられる応用性があるというところだと思います。そこから考えると、悪人・悪事を見逃さないという翻訳には強い違和感を覚えるのです。
「法律としてはどうなの?」を考えるうえでは、『弁護士ドットコム』のようなサイトは確かに有用だと思います。
けれども、「法律でそう決まっているから」を単純な正義の剣にしてはならないのではないか。
まずは自分で善悪を考える、それが法律と矛盾していなければよいし、矛盾しているときにはさらに考える。納得できなければ調べたり誰かに聞いたり議論するなりして、知性的な努力をする。
国民みんなが知性的な努力をしていくことで、現代人の脳の劣化を防ぎ、その時代にあった法律に変えていける。
そして、法に最終判断を委ねているのですから、罪と罰については冷厳な司直の手のみによって下されるものだということです。大衆は圧力をかけてはならない。
法圧国家になってしまえば、それこそ全体主義政治が機能しだすようになってしまうのです。
その国の国民にとって、「法」をどのようにとらえ、「法」をどのように運用していくのかは、国民知性が上がっていくのか下がっていくのかの、バロメーターの一つだと言えるかもしれません。