人生意義のセオリー(8)侠


 

「共感」から生成される心として「愛」と「情」がありました。いずれも重要な心で人生の意義に直結します。今回の記事では「侠」を扱います。「愛」がどちらかと言えば女性性の「思い」だとすれば、「侠」は男性性の濃い「人のために立ちあがる心」です。前の記事で扱った「情」を水の精とすれば「侠」は火の精と言えるかもしれません。

 

4.侠

〇 定義

「侠」という文字は「俠」の略字です。「俠」には「人」という字が4つも入って何をかいわんやですね。(俠はパソコン環境依存文字ということなので侠をここでは使っています)

侠気は「きょうき」と読みますが「おとこぎ」とも読みます。侠の入る熟語はその他に、義侠心、勇侠、侠骨、任侠、仁侠などがあり、強きをくじき弱きを助ける男気という意味が辞書には掲載されていますが、「強きをくじき」と「義(ただ)しい」の意味は補助的に扱います。

主旨としては、困っている人たちや弱っている人たちを見て、居てもたってもいられず、或いは頼まれて、「よし!」と、人のために立ち上がる心の「侠」です。

 

〇 ひと肌ぬぐ心意気

心意気はとても大切だと思っています。正しさの理屈じゃなく、損得勘定一切なく、なんだかよくわからないが勝手に心が動く。歯切れの良さがある。さっぱりと潔い感じの「よし!」という心映えが立ち上がってくる。色々考えてみたのですが、今のところ原理はよくわかりません。しかし心意気を失うことは自分の生命力を失うことと同じことのような気がしてなりません。

「侠」の心意気は、自己犠牲の精神だとか献身性だとか、そういった「善性」の理(ことわり)のたぐいではありません。表面上の意味としては似ているのですが。

 

〇 ありのままの「勇」

新渡戸稲造の『武士道』では、「義」と「勇」がセットで語られます。

「義」――武士道の光り輝く最高の支柱
「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である

新渡戸の論拠としては『論語』の、

義を見てせざるは勇なきなり

「勇気とは正しいことをすることである」というふうに捉えるわけです。

(引用は三笠書房 奈良本辰也訳 新渡戸稲造『武士道』)

新渡戸はアメリカでアメリカ人に対して日本の「BUSHIDO」を紹介しましたが日本へ帰国したのちに日本版の武士道については書きませんでした。だからということでもないのですが、日本文化の宣伝的な「きれいごと」の粉飾が全編に見られると言っても言い過ぎではないと思います。

「勇」には大義の勇と匹夫の勇があり、武士道の「勇」は大義の勇でなければならないというわけです。「義」とは孟子曰く「人の正路なり」ですから、人の道として正しいこと、公けにも正しいことであり、義しいと書いて「ただしい」とも読みます。「正義」は「ただしい」を重ねた熟語です。

 

ところで、倫理学者の相良亨著『武士道』では、新渡戸の武士道を(儒教的)「士道」とし、『葉隠』や『甲陽軍鑑』のそれを(古典的)「武士道」として分け、両者の根柢に流れる何かを浮かび上がらせようと試みています。後者においては「ありのまま」が推奨される。

将たる者はあなどられているのではあるまいかという意識、あなどられまいという意識をつきぬけて、ありのままの自己を以って、内の者の前に立つべきなのである。勿論それは気儘に地金のままにという意味ではない。ありのままとは、いわば一つの境地であり、きびしく自己をみがきあげる努力をふまえてはじめてありのままたりうる。人の前を飾り偽ることなく、ひたすら自己自身をきびしくみがき上げつつ、そのありのままの自己を以って勝負をするというのが、ありのままをよしとした戦国武将の姿勢である。

(講談社学芸文庫版 相良亨著『武士道』p38-39)

相良の論を借りるならば、ありのままの「勇」とは、既に十分に自己を磨き上げたのちに自然と生まれる「勇」なのであるから、いざその段になって「義」だとか正しい理だとかを考えるようではならない、となります。

この「ありのまま」は前の記事で扱った本居宣長の「物のあはれ」論に通底するところがあり、宣長は「あはれ」の重要性を語る際、儒教や仏教の正しい理屈などは「さかしら(賢しら‥※利口そうに振舞うこと)」であると退け、また歌論においては「本情のありのままに詠む」ことを是としました。

そもそも正しいこととは何でしょうか。何をもって正しいとするのか、何をもって善とするのか、そこに独善の正義がはたらくこともある。

であれば、「義」をさっぱり抜き切った相良の言うところの「ありのまま」の「勇」こそ、(結果的にたとえ間違いや失敗だったとしても)腹を切る覚悟のある「勇」ではないかとなってくる。今日のタイトルを「義侠」とせずに「侠」としたのは、純粋な「心の侠」そのものを捉えたかったからです。

 

つまるところ、無意識下の深層でなんらかの化学反応が継続して起きており、生得的(遺伝子的)なものも絡み、「共感」が中核となってそこから純粋な「侠」が立ち上がってくる。「よし!」という心意気が生成される。「愛」と「情」にしても共感が核となって生成されている。

しかし共感だけではない。おそらく、無意識下に押し込んだ多様な理性的価値観が混合され、「侠」にせよ「愛」「情」にせよ、常に洗練され続けているのではないか。私たちはそのために、洗練されるに相応しい理性的価値観を学ぶことを継続し、考察と刺激を習慣化しているかどうか、このことに無反省であってはならない。

明確となった構造は、「共感」→「侠」「愛」「情」「心意気」+「共感系刺激の習慣化」「理性的考察の習慣化」→「志」→「企画実践」+「継続性」です。この連続要素すべてが(たとえ一部でも)「人生意義」となる。

無意識内での化学反応のメカニズムについては、仮説を立てるにしても現在の私の能力ではいささか手に余りますので、今後の課題として常に意識しておきたいと思います。

「侠」や「心意気」を立ち上げましょう。

「人生勝負」の気概を失ってはならない。

 

考察をつづけます。