問題解決でなく希望と憧憬の創造(4)


キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の一神教文化では、「人間は神によって創造された」という教義上の原点がある。両親の子どもとして生まれるが、自分の創造主は神であるとの価値観が根底にある。

自分という「人間存在」は既に神によって創造されている。一方、才能や能力といった「人間の一部分」については、個人の努力によって高められるものがあるとする。ここでも能力を対象化し「モノ」として扱う。この認識論が、西洋の(物質)科学文明のみならず、人間の知性的能力を大いに発展させた。

しかしコンピューター時代の到来とその進歩によって、知性的能力のほぼ全てをコンピューターによって代替できるようになり、AIによって人間知を超えるところまできたのだ。

ビジネスにおいて、年功序列主義から能力主義へと価値観が変わり始めたのが30年ほど前からで、今ようやく、多くの日本の各企業が能力主義へとシフトし出してはいるが、実は、もう(知的)能力主義は終局へと向かっているのだ。このことに日本のほとんどの企業やビジネスマンは気づいていない。

勘の良い人ならもう解るだろう。人間の知的能力を使う仕事のほぼ全ては、AIにとって代わられる。だから、今ごろ能力主義を掲げている鈍感な企業は終わる。

 

では、人間自体が淘汰されてしまうのではないか、コンピューターと人間の合体化から(今既に、サイボーグ化の一部テストが始まっている)、近い将来にはAIロボットが人間を使う立場になるのではないかという想像が働く。

人類は、人間とは何か、人間にとって良いこととは何か、その個人にとって良いこととは何かなどについて、人間の本質を一から考え直さねばならない時期に入ったのだと思う。

西洋文明は、モノ化した「人間」の文明として、モノ化した「能力」の文明として限界点に差しかかっている。一神教文化では、神の創造文化があったために、「人間らしい全人的人間(部分や能力ではなく)」としての、非目的的な“自分創造”をしていく文化は育たなかった。ここに可能性をみる。

科学文明の進歩、経済文明の進歩は、医療や福祉などを通じて人類の不幸を減少化させることに貢献したけれども、けっして幸福を増加させたとは言えない。

ポスト「人間のモノ化」の価値観大転換によって、私たちはこれを乗り越えて行こう。

 

 

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