無意識と意識の「構え」


例えば剣道には上段の構えや正眼の構えがあるし、柔道や空手にも構えがある。ボクシングも構えがあり、格闘技に限らず陸上短距離走のクラウチングスタートも構えだ。「レディー・ゴー!(Ready Go!)」の Ready は「ようい、どん!」の「ようい」の構えであり、「構え」とはコトに及ぶ直前の準備を表す。

上記の例は意識的かつ外形的ではあるが、内面の心も準備される。

このとき、意識的に準備の心を作ることと、無自覚に無意識から湧きあがってくる準備の心とが混在している。

わかりやすい無意識の構えとは(意識的にそうすることもあるが)、例えば日常社会生活上では、出勤時に会社の扉を開ける直前の心構え、重要な商談に臨むときの心構え、初対面の人と会うときの心構え、舞台に上がる前や試合前の心構え、帰宅し玄関へ入り扉を締めるときのホッとする心構え、リゾート地へ出かける前や到着直前の心構えなど、数え上げればキリがないほどだ。意識に重心が置かれる場合と無意識の構えが無自覚に現れてくる場合とがある。

「構え」は「ペルソナ」に直結する。

 

ヨーロッパではこの構えという概念を、19世紀後半から20世紀初頭のかけて、ミュラー、シューマン、キュルペ、エビングハウスらの心理学者の手によって確立した。日本における、特に武道の構えは、もしかするとヨーロッパよりもずいぶん早く確立され、心理学方向からのアプローチではなく、実践が先に立つ「形から入る手法」に現われているのではあるまいか。日本の心構えについては改めて研究してみる必要がある。

ユングは上記心理学者らの研究を受けて、独自にこの概念を分析した。

『タイプ論』から Einstellung (構え)についての特徴を幾つか抜き出してみる。一読するだけでは理解が難しいところがあると思うけれども。

〇 われわれは構えを、一定方向に作用ないし反応しようとする心の準備態勢とみなす。

〇 構えがなければ能動的な統覚(※)は不可能である。

〇 関係ないものを排除する、選択や判断がなされる。

〇 意識的と無意識的の二つの構えをもっている場合も非常に多い。

〇 意識は無意識とは異なる内容をあらかじめ用意している。(構えの二重性)

〇 構えとは一種の予期であり、予期はつねに選択したり方向を与える作用をなす。

〇 意識内容は自らに対応した構えを作り出す。

〇 この自動的な現象こそ、意識的な方向づけが一面的になる根本的な原因である。

〇 もし心の中に意識的な構えを修正する自己制御的な補償機能が存在しなかったら、平衡がまったくとれなくなってしまうであろう。

〇 素質・環境の影響・教育・人生経験全般・信念・に基づいて、ある内容的布置が習慣的に存在しており、それがつねにしばしば細部にまでわたって一定の構えを形成している。

〇 感情が思考や感覚を呑み込んでしまうこともあるが、こうしたことはすべて構え次第なのである。

〇 結局のところ構えは個人個人で異なる現象であり、科学的な観察方法にはなじまない。

〇 しかし経験的には、いくつかの心的諸機能を区別できるかぎりは、いくつかの構えのタイプを区別できる。

〇 ある機能が習慣的に優位を占めていると、それによって典型的な構えが生じる。

〇 こうして思考・感情・感覚・直観それぞれに典型的な構えが生じる。

〇 社会的なタイプも、すなわち集合的表象の特徴を表しているタイプもある。これらを特徴づけているのは、さまざまな主義である。いずれにしてもこうした集合的に決定された構えはきわめて重要であり、時には純粋に個人的な構えをはるかに超えた意味さえもつのである。

(みすず書房版 C.G.ユング著 林道義訳『タイプ論』第十一章「定義」)

※統覚(Apperzeption)・・統覚とは、新しい内容が、すでに存在しているそれと似た諸内容の中に組み込まれることによって、理解されたもの・把握されたもの・明白なもの・と呼ばれるようになる心的過程である。統覚は能動的なものと受動的なものとに分けられる。(同書)

 

統覚は認識への架け橋と言って良いのかもしれない。

最後の「集合的表象の特徴」を補足しておくと、社会からの要請によって無自覚に付与される仮面(ペルソナ)、つまり知らず知らずのうちに社会に飼われている家畜のようになってしまう個性喪失状態がひとつ。もう一つは生得的に(先天的に)備えている、人類の普遍的な幾つかの「構え」であり、これは後に、ユングが『元型論』で述べるアーキタイプの端緒となっている。(アーキタイプ・・アニマ、老賢者、永遠の少年、グレートマザー、トリックスターなどの別人格)

上記の「構え」にかんする記述には濃厚なエッセンスが凝縮されており、その一文一文の背景の深度は相当に深い。

構えによってペルソナが生じ統覚する場合もあれば、社会からの要請によって先にペルソナが形成され、構えが後から生じ統覚する場合もある。あるいは受動的な統覚が先に発生し、あわてて構えが変更されペルソナが生じる場合も多々あるだろう。例えば急に道を尋ねられたりしたときに。

われわれの日常生活でも、「構え」によって必要のない情報を排除し、必要のある情報にフォーカスしようと五感が自動調整される。

上掲の写真が美しく自然に感じられるのは、われわれの視覚が焦点を絞ってピントを自動調整する習慣によって、(写真においても)背景を排除しようとしているからにほかならない。聴覚でも同様に、聞きたい人の声や音楽の音に焦点を絞り雑音を排除しようと自動調整される。まれに自動調整に障害があって感覚過敏の人もいる。

「構え」の機能はそうした選択を可能にする。

意識の構えと無意識の構えの二重構造において、どちらかが補償的役割を果たす場合は正常な現象であり、しかし両者が譲り合わず一つの決断をすることに支障をきたす場合、神経症になる恐れがあるとユングは述べている。

また、「生が不快に満ちていることをとくに深く感じとっている人が、つねに不快なものばかりを予期する構えを持つのは当然」(同書)とも述べている。

 

ここまでで解ったことは、「構え」がいかに生命活動とって重要であるかということ、自分が周囲の人たちに与える影響においても、「構え」が大いに関係しているということです。

 

ユングは「構えは個人個人で異なる現象」と断りつつ、精神科医としての十数年にわたる現場経験と研究から、構えのタイプを区別できるとした。思考・感情・感覚・直観という分類の是非はともかく、それ以前の内向性・外向性への個人的傾向は、ユングが決定的に定義づける100年以上も前から心理学者たちによって研究され、定説が形成されてきた歴史がある。

類型についてはまたあらためて考察することとします。

 

次の記事では、構え・ペルソナ・統覚の三要素によって生じる人格の根源と認識の関連性について考えてみようと思います。

 

 

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