「未来の個人」に尽くす


かつて私は「よりよき社会」の実現を目指そうとする者であった。ここのウェブサイトの過去の断想記事に、おそらくその残骸が見られるはずだ。世界中の人たちが幸せになれる「世界」や「社会」になれば良いなと思考を巡らせた。それはごく普通の感覚だと思う。普通の人だったのかもしれない。

今はもう、「世界」や「社会」のためを思わない。一切思わない。別にぐれたわけではない。世界津々浦々に暮らす人々には、その土地それぞれ固有の価値観があり、更に、個人ひとりびとりに固有の価値観がある。宗教信仰もある。キリスト教とて一様ではなく幾つかに分かれ、近親憎悪のごとき対立もある。仏教もイスラム教も同様だ。これに社会思想が加わる。民主主義、専制主義、自由主義いろいろだ。そうした価値観の違いは戦争にまで及ぶことがあり、また、戦争に価値観が利用されることさえ日常茶飯事だ。例えば、民主主義を守る戦いだとか。

例えば、「世界平和」というのは空疎なお題目に過ぎない。平和を望まない人々もいる。平和よりも利益だとか、平和よりも宗教の布教だとか、退屈な平和よりも興奮するカオスの戦争ゲームを好むとか、挙げていけばきりがない。どうせ人類は必ず滅亡するのだから自分が死ぬまでにそれをこの目で見たいという人もいよう。しかしそうした人たちも、表向きは、平和を願うとしか言わない。

もし全地球人が平和を欲するようにしたいのであれば、たった一つの同一の思想が必要だ。価値観の完全一致が必要だ。例えば、解釈に絶対性をもつ、たった一つの宗教を全地球人が信仰することである。これはユートピアだろうか。私にはディストピアに思える。世界平和は完全実現するだろう。それと引き換えに全人類が寸分の狂いもなく全く同じ価値観となる。これ自体不可能のことと思えるが、脳に手術を施して近いことはできるようになるかもしれない。そこまで徹底できるのならば、どうぞ世界平和を目指し実現すればよい。私は賛同できぬ。

別の角度から考えてみよう。社会や人類世界という概念は実在するものだろうか。頭の中で、人の集合体をそう名付けているだけの想像物ではないのか。観念上にのみ存在する概念を形而上概念と呼ぶことにしよう。社会という形而上概念に「人格」をもたせ「人格」をより良きものにすれば、その社会の構成員が全員幸せになれると仮定しよう。相当無理があるが仮定だ。その場合、社会という「人格」に構成員全員を従わせようとする全体主義の力学がはたらくことに無自覚であってはならない。社会思想にはそういう性質がある。一元原理、一元価値観による全体主義である。

私は数年前、そうしたトップダウン型の「より良き社会」「理想的な社会」の傲慢と欺瞞に気づいた。緻密なロジックで考えればそうなる。

社会という形而上概念を成立させているのは、形而下に実在する人間ひとりびとりの個人である。ひとりびとりの個人は観念ではない。実際に、具体的存在として実在している。具体的存在として実在しているひとりびとりの個人それぞれが、高邁な思想信条と理知をもち、人に対する深い慈愛の心をもつと仮定すればどうだろう。そうした価値観や心情が世界中の隅々まで伝播し、自然に善い社会が彼ら全員の手によって形成されていくのではないか。「個」ありきである。つくるのは彼ら血のかよった生身の「人間」であり、普遍的価値観によってではない。

そう考え直した私は、「未来の個人」の皆さんに期待し、そのための一助になればと志し、このウェブサイト全体を一つのコンテンツとして残そうと企画し直した。21世紀に存在する70億人のうちのたった一人の私が行うことであり、世界の東の果てに浮かぶ小さな島国のかすかな一隅ではあるが、現存する人類を含め今後生まれてくる数千億の「未来の個人」のためにと、可能性を信じたい。

「社会」ではなく、「未来の個人」のために尽くすことを、私の残りの人生を賭けた使命としたい。

 

 

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