principle(2)人類知の限界


人間(個体)の本質を探究していく上で、未来において究極の人類知でさえ小さな一部として包摂される、永遠に未知の「〇〇」の世界観を仮設定しておく。人類知を超越した「〇〇」は人類知では対象化できないため人類言語で定義づけることも名づけることも避けねばならない。

人類知は、その究極に至っても鎖に縛られた箱から出ることはかなわない。

なぜ人類知の限界を設定するのかについて言えば、限界を設けることで人類を超え得る可能性を理論に含んだ方が、優れた理論ができるという直観である。現状で理由は明確ではないが、いずれこの設定は生きてくると思っている。この可能性を人類は人類のロジックで否定できない。

人類の自然科学の発展によって地球は自転していることが解り、宇宙誕生は137億年前、太陽系誕生(地球誕生)は46億年前という推定も可能になった。そのような知のない古代では、天地と人を創造した「神」を人類が物語化した。紀元前1000年頃発祥のユダヤ教のヤハウェ、紀元後発祥のキリスト教の三位一体の神、西暦600年頃発祥のイスラム教のアッラーなど。紀元前1500~2500年頃の古代インドにおけるヴェーダ聖典では「宇宙原理」を仮想し「ブラフマン」と呼んだ。それぞれ人類を超えるものを設定し宗教として信仰した。しかし、いずれも人類が対象化した観念である。

私に言えるのは「人類知には限界があり、一部として包摂される」ということだけで、何によって包摂されるのかについては対象化もできないし言及もできない。

他の人にはスッキリしないかもしれないが、これは独自の理論を展開し創造してゆくための個人的な設定である。別の言いかたをするならば、未来に究極まで発展した人類知の、「封印」を可能にした。

 

 

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