偶然性と自由意志


 

1.偶然性と必然性

私はこれをまず、自分が主体として捉える場合と客体として捉える場合とに分解したい。偶然性の議論をする上で、偶然と必然の対照性について考えることが糸口になると考えるからである。対比構造の議論によって理解が深化し、新しい本質的な知見が得られるのではないかという期待もある。

そしてこのテーマの向こう側に、自由意志の有無の議論があることを見据えている。世界決定論的な世界観ではすべてが必然であり人間に自由意志はない。一方で偶然性を有する未来について予測不可能な世界観では、人間の自由意志によって思考し判断する。よって自由意志を考察する上で、偶然性と必然性の議論は有意義である。

 

2.客体として

主に現代物理学からの科学的見地であれば、この宇宙の活動すべてが必然であると考えることができる。偶然性はないとするのが科学的な立場になる。例えばサイコロを振って「3」の目が出る事象について考えてみよう。サイコロを転がすときの手と指の角度や力加減、気温、気圧、ミクロの空間状態、テーブルの凹凸と摩擦などすべてが影響し、それらが物理法則にしたがう結果、必然的に「3」の目が出ると考えることができる。例外はない。

私たちはこうした科学的見地からものごとを思考し判断する知性をもつ。この観かたを客観と呼ぶ。客観を使って自分自身を客体として捉えれば物理法則に包摂される人間としてのあらゆる活動は必然になる。身体的な活動、例えば血液の流れや呼吸、内臓のはたらきも病気も必然であり、思考や感情、理性も倫理判断も、人間のあらゆる精神活動も必然であり、人間には自由意志がないとなる。

但し、自由意志を考察していくうえでは「意志」という概念と、その本質的な生成原理を明らかにしなければならないため、現在の私の知的力量では手に余る。自由意志についての詳論は後日、あらためて取り組んでみたい。

 

3.主体として

私たち人間は、科学に対するように客観としてものごとを捉える観点をもつが、現実を理解する上では主に主観によって捉えることが多い。身体に熱や痛みがなければ体内で癌細胞が育っていることは認識できない。自分を客体として検査をしなければわが身の詳細な健康状態はわからない。また、サイコロを振って「3」が出るのを必然として捉えることはできない。ミクロの物理現象を認識できないからだ。主観として論理的に説明できない交通事故に偶然性を感じるのも、天気予報にない突然の雷雨を偶然と感じるのも、人間主体としては自然な解釈である。客観的に論理をもって推測しても、自分のなかにそれを裏付ける根拠をもたない場合に、偶然性が混入された解釈が生じる。

他方、仮説として「これは運命で必然である」というふうに非論理的に幻想の必然性をつくりだし信じることもできる。運命の出会いや運命の赤い糸を必然であったかのように語り、それが非論理的であることを承知で夢見ることにロマンを感じることもまた、人間ならではの想像的世界を楽しむ情緒的ワンシーンである。

このように、論理的か非論理的かにかかわらず、私たちは客観の必然性をさも理解しているかのように主体として捉えることもできる。しかし論理的な正しさを徹底的に重視するのならば、周囲の環境変化や事象、自分自身の生命活動すべてについて完全な論理性を証明する能力が一人間にはないため、解釈に非論理的な偶然性を補完し、必然性に偶然性が伴って起きていると認識するほうが精確である。偶然性が伴えば、その事象は偶然となる。

主体として主観のみをはたらかせての認識は、すべて偶然であると言えよう。よって主体としての自由意志は有る。否、すべての思考と判断は自由意志だと言える。

 

4.自由意志について

ここで自由意志について少し掘り下げ、触れておくことにする。通常、私たちは必然性を考えながら計画や予定を立てたり危険を回避したりしながら生活している。必然性によって未来の事象を推測する能力が人間にはある。犬や猫、カラスにも推測する能力を認めることができる。しかし何もかもが計画や予定どおりには行かないことも知っている。買い物に出かける予定を立てていたが、家を出る直前におなかが痛くなったり、急用の電話が入ったり、買い物に行ったはいいが店が閉まっていたり、店に目当ての商品が無かったりなど、計画どおりに行かないことは日常茶飯事だ。

そうした主観的必然性を超えて生じる事象について必然だと解釈せず、私たちは偶然にそうなったから仕方ないとか、他者や自分に対して腹を立てるとか、今後はこういうことのないようにしようとか、計画の論理的欠落部分および偶然性を認識し、学習し、頭脳と心を整える。そのような習慣から、世界は必然性だけではなく偶然性が伴っていると認識しているからこそ、選択に迷い、判断に迷い、その上で意思決定を行っている。自由意志によって生じた責任の大半は自分にあると。

おなかを壊さないように朝食は何にするか、愛する人の誕生日プレゼントに何を贈ろうか、他人の迷惑にならずに電車に乗ること、社会のために何かをしたいので自分にできることをしよう、などを自分で思考し自分で判断するのは自由意志によると私たちは考えている。

しかし一方で、客観的な視座によって科学的に世界の解釈を試みれば、先天的な遺伝的要因と後天的な社会環境がもつ価値観の学習要因によって、自らの価値観や性格が自動的に形成され、すべては人間の心的欲求を原理とした必然であると解釈することもできる。

偶然性と必然性を対照的に捉え、両者が同時に存在することで生じる論理矛盾を積極的に受け容れることで、新たな知的パラダイムへの転換が可能になるのではないだろうか。

 

5.偶然性と必然性のアウフヘーベンと融合

偶然性と必然性を企図的にコンフリクトさせることでアウフヘーベンが起き、新しい第三の何かが生成される予感がある。偶然性と必然性は対立はしていても、相互に影響を与え合っている。私たち人間の認識における解釈は通常、主観と客観を無自覚的に混在させて行う。このとき、主観と客観は行ったり来たりを繰り返し、相互に関係しあう状態にある。関係は反発しあう場合もあるが、融合する場合もある。主観は偶然性を感じ非論理的解釈を生じさせ、客観は必然性を基に論理的解釈を追求する。

私たち人間は意識上では、一度に一つの文脈でしか思考することができない。同時に別々のことを並行して思考することができない。主観で事象の解釈に偶然性を介入させ、次に客観の必然性を考え解釈する、というふうになる。ところが意識上ではなく自己本体では、同時に複数の思考を並行して行っている。だから突然の閃きが起きる。自己意識では認識できない活動結果そのものを、自己本体の自由意志と定義することは可能だと思う。

難問であるので、引き続き考察を深めていきたい。

 

6.時間の不可逆性

さらに、自由意志を考える上で、時間の不可逆的性質を議論に含める必要がある。過去の出来事が未来の出来事に影響を与えるのは因果律によって当然だが、時間の不可逆的性質は未来に起きる事象が過去の事象に影響を与えることはないことを示している。物理的に、過去から未来へとエントロピーが増大することで時間の不可逆性が生じるのか、時間の不可逆性によってエントロピーが増大するのか、いずれにしても、時間の不可逆性によって過去と未来は非対称となる。

未来の事象によって人間の過去解釈は変わることがあるが、事象そのものは変わらない。現在の事象は過去の結果として必然的に決定されたと解釈することができるが、現在以降の未来の事象は現在において決定論的世界観をもって予測することはできず、偶然性が常に存在すると言える。

偶然性が常に存在するのであれば、思考し判断する自由意志は、必要不可欠と言えるのではないだろうか。

 

まとめ

偶然性と必然性、主体と客体、主観と客観、自由意志と世界決定論、自己本体と意識体、これらのテーマについての考察を深めることは、私の自己本体の中で閃きと洞察の化学反応が起きることに繋がる可能性があると考えている。

 

 

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