subject(1)序


アイデンティティから続くこのシリーズですが、当初の予定では「自我について」が次のテーマでした。しかし7月一か月間の自己内議論と突如の閃きによって自我問題は矮小化されました。小さな問題になったということです。それよりも大きなテーマとして【 subject 】を掲げ、その一部として自我をどこかで扱います。

subject は哲学では「主体」「主観」と和訳されますが、いずれも明治以前の日本には無かった概念です。「主語」という概念もありませんでした。なぜ無かったのかについては、subject シリーズの後に、純日本思想を深く掘り下げる予定です。

 

テーマ名を「主体」や「主観」にしなかったのは、どちらの和訳語も、歴史上多義的に使用されてきた subject の語感には相応しくない、誤解を招きやすいとの判断からです。

次の記事からは本格的に西洋哲学の根幹ともいえる、或いは西洋哲学の中核として推移してきた subject 概念の変容の歴史とその構造(ロジック)について書いてみます。subject – object の対立軸も当然含みますが、西洋哲学の基本は subject  に集約されると思います。

 

最終章では、西洋文明が subject を失うことができなかったために混沌となった西洋哲学の陥穽(※かんせい…おとしあな)を指摘したい。これは西洋だけの問題ではなく現代日本人の問題でもあります。明治以降の教育によって西洋文化的な視座が中心となってしまい、戦後教育を受けた現代日本人は特に、subject を前提とした先入見で考えるようになってしまっているという現状がある。

もちろん、subject 概念を取り入れて考察できるようになったことは、日本人にとって大きな進歩でした。しかし、subject 概念をもたなかった日本文化を捨ててしまうことはない。かたくなに一つの真理を求めようとするのではなく、一元原理主義に固執するのではなく、柔軟に、しなやかに、多元原理の不安定さのなかで認識し、解釈し、考察してゆくことは楽ではありませんが、知的能力を向上させます。当然です。

 

あらためて純日本文化の subject 抜きの視座シリーズで触れますが、哲学者の西田幾多郎の次の言説は有名です。ここではそのさわりだけ。

私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於いて何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。

(岩波新書版 西田幾多郎著『日本文化の問題』)

 

西田は徐々に仏教へと傾倒してゆきましたので「自然法爾」という仏教用語が飛び出していますが、淵源へと辿って行けば、国学者の本居宣長による「もののあはれ」の思想がある。宣長の思想というよりも連綿と継承されてきた日本独自の、自己が大自然の中に溶け込み一体化していたことが、ごく一般の日本人の感覚だったのではないかということです。

重ねて書きますが、純日本文化を復興させてという考えは私にはありません。西洋と日本に限らず、「常に自由なブレンド」によって新しい価値観の“ブランド”を創造してゆくという、野心的企てがメインテーマです。そのためにも西洋哲学の subject をしっかり押さえておきます。

 

 

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