大衆の克服(1)―トップダウン意識は誤り


まず始めに「大衆」のことを考えてみたい。

私たちが「大衆」という言葉を用いるとき、それは国民の集合体なのか、マジョリティーなのか、ふつうの一般市民なのか、愚民の意味を孕んだものとして若干の侮蔑の意を込めるのかなどについて、自分なりに色を付けて解釈していると思います。

書き手の文脈にも、読み手の文脈にも左右されるのですが、今日は、政治家(行政指導者の長)だけを除き、自分自身をも含めた一般市民を大衆と呼ぶことにします。

 

現代日本の政治は愚かな大衆迎合政治。

民主主義とは単なるポピュリズムなのか。

 

興味深い一文を発見したので引用する。

一人の人間が矛盾のかたまりである以上、大衆もまた矛盾の存在であって、〈大愚〉と〈大賢〉の両要素を合わせもつ。

従って「大衆の側に立つ」ということばのアヤに寛容であってはならない。

大衆の内部にある〈大賢〉の要素をつちかう努力だけが大衆の側に立っている。いかに大衆の喝采を浴びようとも、その〈大愚〉の要素に媚びたり、それを助長している行動は大衆を大衆の敵に売り渡している。

(評論社版 むのたけじ著『詞集たいまつ』)

「大衆の側に立つ」とはなにか。

大衆が〈大愚〉の要求をし政治家が大衆ファーストを推進するとき、政治家は大衆から拍手喝さいを浴びることと引き換えに、「大衆を大衆の敵に売り渡している」とむのたけじは言うのである。

ポピュリズムや大衆政治という言葉が使われるときには、たいていその愚かさを批判することが多い。しかし、大衆が「大賢」であることが民主主義の前提であるということを忘れてはならない。

 

民主主義とは本来、ボトムアップ型であり政治家は権力者ではない。大衆側に権力がある。それなのになぜ政治家が権力をもっている“ように思える”かと言えば、大衆の意識が前時代的な「政治家+官僚=お上」だからである。

民主主義がもし機能するとすれば、大衆の自己批判と、自分は大愚ではないかどうかを吟味する姿勢が必要不可欠だ。私たち大衆は大賢にならねばならない。その自覚をもたねばならない。権力者であるという自覚をもたねばならない。

政治家や官僚から大衆へのトップダウンスタイルは、大間違いなのである。民主主義において彼らは、「指導者」ではないのだ。

私たちは、真の民主主義の扉を開く歴史的地点に、今立っている。

 

 

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