大衆の克服(2)―畜群根性


前の記事では「大衆」をフラットに見て書きました。今日の記事では「畜群根性に陥ってしまった大衆」として、「(大衆)の畜群性」を扱います。

「畜群」とは読んで字のごとしで、家畜化された群衆です。私も含めた大衆がもつ畜群根性を棄てていかない限り、民主主義は堕落してゆく一方になる。

 

今日はニーチェの辛辣な文章を引用していく。

 

善意があるのと同じだけ多くの弱さがあるのを、私は見た。正義と同情心があるのと同じだけ、それだけ多くの弱さがあるのを。

(中略) 結局のところ、彼らがひたすらに望んでいるのはただひとつ、誰からも、痛い目に合わされたくない、ということだ。

そこで彼らは、誰に対しても先手を打って善意を示す。
だが、これは臆病というものだ。たとえ「美徳」と呼ばれようとも。――

(中略)

人を慎ましく、かつ温和しくさせるもの、それが彼らには徳なのだ。それでもって、彼らはオオカミを犬にした。人間自身を、人間の最良の家畜にしたのだ。

(白水社版『ツァラトゥストラはこう語った』小さくする徳2)

 

世のマジョリティーの声に従順であること。当たらずさわらずの日和見主義。ことなかれ主義。そうした姿勢は、自分が痛い目に遭いたくないという保身、臆病さから出てくるもので、当事者意識を薄くし、責任逃れをしているわけです。当たっているでしょう?

集団のひとりとして紛れ込んでいれば目立たない。責任は集団に押しつけるか、集団のリーダーに押しつける。何かの抗議デモなどを見ているとよくわかりますね、「一個人(の自立と責任)」不在ということが良くわかる。デモの安全を保障され、雰囲気に酔って気分を高揚させなかなか楽しそうではある。

しかしかく言う私も、日本という国家に国としての責任を押しつけ、首相をはじめとする政治家に責任を押しつけている大衆のひとりです。国のために、日本国民の一個人として、自己責任をしっかり負える形での行動をしなければ畜群のそしりは免れない。

始めてはいますが、まだまだ道遠しであります。

 

結局、畜群根性の大衆が、畜群根性の親玉を政治家として選んでしまう。

ニーチェは次のようにそれをつく。(文意を壊したくないために少し引用が長くなりますが、ニーチェのなかでは比較的解りやすい文章だと思います。)

(人間は) 要するに「なんじ為すべし」と命じるものへの欲求を、生まれながらにしてもっている。

そしてその際、その強さと性急さと緊張に応じて、粗暴な食欲のように、ほとんど選り好みをせずに手を伸ばして、誰か命令する者――両親とか、教師、法律、身分上の先入観、世論など――によって耳に吹き込まれるものがありさえすれば、それを受け入れる。

(中略)

この本能が放埓(ほうらつ)の極にまで達する場合を想像してみると、ついには命令する者や独立した者がまさにいなくなってしまうか、あるいは、これらの者が内心、良心のやましさに悩んでいて、命令しうるためにはまず自分自身をごまかしてかかる必要がある、つまり、自分たちもまたただ服従しているにすぎないかのように見せかける必要がある、という状況にたちいたるのだ。

このような状況が今日のヨーロッパには事実生じており、私はこれを、命令者たちの道徳的偽善と呼んでいる。

彼らは良心のやましさから身を守るために、自分たちがより古くより高い(祖先や、憲法や、正義や、法律や、神すらも)命令の実行者であるかのように振舞うか、あるいは、畜群的考え方から畜群的な格率を借りて、たとえば「自らの民族の第一の僕」とか、「公共の福祉の道具」といったようなふりをする以外の道を知らない。

他方において、今日ヨーロッパでは、畜群的人間が自分こそ唯一の許された種類の人間であるかのような顔をして、自分を温良で協調的で、畜群にとって有用なものにする自らの性質を、本来の人間的な美徳として賛美する。すなわち公共心、好意、顧慮、勤勉、中庸、謙遜、寛容、同情などである。

しかし、指導者や先導者なしではすまされないと思うような場合には、今日では試みに試みを重ね、賢い畜群的人間を寄せ集めて、命令者の代理をさせる。たとえば、すべての代議制度がこのような起源をもっている。

(白水社版『善悪の彼岸』199番)

 

人間には「確たる何かからの命令に従いたい」という欲求があるとニーチェは言う。

19世紀のヨーロッパの民主主義と大衆の関係を例に挙げていますが、21世紀の日本やアメリカの政治にも見事に当てはまる。「独立自尊」の政治家など一人もいません。なぜなら高貴な大衆がマジョリティーとなって選んでいるのではなく、堕落した畜群の大衆がマジョリティーとなって選んでいるからです。そうして今の日本の超軽量政府がある。しかも代わりがいないから他が担当するよりマシだと判断するしかない。自省を含めて書いている。

政治家は国家の第一の僕としてふるまい、大衆ファーストのふりをして大衆に責任を押しつける。それが現代の民主主義の惨状だ。まさに政治家自身に畜群根性が染みついている。

公共心や中庸、勤勉、謙遜、寛容、同情などが本質的に悪いのではなく、畜群たる大衆を納得させるために指導者(命令者)がそれらを表面上の美徳として飾り、道具化していることをニーチェは批判している。

欺瞞と自己欺瞞が世にはびこっている。

 

では、私たち大衆はどうしたら良いのか。

ニーチェはこう語る。

まず、意欲することのできる者になれ!

いつの時も、おのれと等しく隣人を愛せよ――だがまず、おのれ自身を愛する者になってくれ!

――大いなる愛をもって、大いなる軽蔑をもって愛するのだ!

(白水社版『ツァラトゥストラはこう語った』小さくする徳3)

 

命令に対し盲目的従順にならず、自らの意志で、自ら意欲せよとニーチェは檄を飛ばす。

彼はキリスト教を批判し隣人愛も痛烈に批判したけれども、ここでは隣人愛を肯定しているのです。隣人愛の二義性がうかがえる貴重な文章です。

「大いなる愛をもって」とは、逆を言えば、小さい不十分な自己愛では自分を慰め甘やかすだけだということ。

「大いなる軽蔑をもって」とは、未来に自己克服した自分を想定し、そこに視点を置き、現在の自分を見て軽蔑することと私は解釈しています。自分に対する可能性を信じろということでもある。

ニーチェの『超人』思想というのは、自己克服した超人像を未来へ自己投企するという解釈ができると思います。神に対する単なるアンチテーゼではなく。超人像をどうするかは個人の自由。「綱渡り師」は「道化師」を超人像にしてしまい綱から落下して死んでしまった。『ツァラトゥストラ』での超人をそう考えると点が線となって全部つながってくる。ハイデガーはニーチェの超人をヒントに投企という概念を造語したと、ここも繋がる。

さて、この「軽蔑」にしても二義性があって、悪口や皮肉として批判しているというふうに表層だけを浅く切り取ってしまうと、ニーチェの深みを感じとれない。もったいない。最初は私もそうだったんですけどね。

「軽蔑」や「畜群」といった悪辣なことばの表現がニーチェの書にはたくさん出てきますが、それは単なる批判や非難ではなく、ニーチェの場合は大いなる愛なのです。「このような人間を軽蔑する」という文言は、その種の人間の可能性をみている。

「自分に対して、大いなる軽蔑をもって愛する!」

 

謙虚、自省、自らへの叱咤、そうした善人的意味、向上心的意味を一切加味せずに、未来に投企した超人像の視点から、真っすぐに軽蔑せよということと受けとります。

自分のなかにある畜群根性に対して。

 

そして、内心の承認欲求をすべて廃棄し、独立自尊、純粋な意志で意欲していこう。

 

大衆の克服(3)―克服の決意 へつづく。

 

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