思想について


今日は2024年の大晦日。
最近は日々の断想を書くことを怠っていた。思いついたことはSNSプラットフォーム (エックス:旧Twitter)に独り言として書くことが多かった。手軽である一方、ここにしっかりと残す作業がわずらわしく感じていた。また、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」というライフワークの本論に注力していたことも一因である。
せっかくの大晦日なので、久しぶりに断想を一稿したためてみたいと思う。

 

テーマは「思想について」

まず、思想と哲学の違いについて述べてみる。この二つは、それぞれの言語から連想される観念上の概念であり、私の個人的なものである。他者とは異なることがあって当然だということを前提に置く。

私にとって、「哲学」は価値判断を一切含まない。善悪、優劣、損得、美醜といった色付けを排除した、無色透明の純粋な論理であり、根本原理を考え抜く学問である。一方で「思想」は価値判断を含む。「良い」という色付けが加わり、それを基盤に体系化されたものだ。個人では実存主義や倫理学、社会では自由平等主義やナショナリズム、さらには宗教も「思想」に含まれる。

哲学の本質は考えることであるから動的であり、思想は既に出来上がったものとして静的である。しかし近年では、単に論理的に一貫した理屈や態度を示す人を「彼には哲学がある」と表現するのをよく見かける。「政治哲学がある」といった言い回しも同様だ。これには「良い」という価値判断や「こうすべきだ」という信念が伴っている。私にとってこれは哲学ではなく思想信条である。

 

思想とは何か

宗教信条を含め、思想信条なくして人間は生きていけるのだろうか。この疑問が最初に思い浮かぶ。思想の根本から考えてみよう。

幼児は価値を覚え、親や社会から多様な価値観を学びながら、自己の価値観を形成する。しかし価値観が混在したままでは安定せず、他者や社会と関わる中で「社会的信用」の重要性を学び、それを獲得するために「変わらないこと」を社会の側から求められることに気づく。

言動が整合性を欠いたり、態度を容易に変えたりする者は信用を失う。一方、柔軟に価値判断を行う人間も、ときに疎まれる。人は他者に一貫性を要求し、それによって自身の内的世界の安定を図るのである。こうして社会的信用を重視することが、自分に統一的な思想信条を欲する理由の一つになる。思想信条は、自己を律する基準として有益であるが、同時に柔軟性を失い固陋となるリスクも忘れてはならない。

思想は個人が自己を形成するための重要な基盤ともなる。特に若年期において、人は外部から取り入れた価値観や思想信条を通して、自らのアイデンティティを模索し、自分が社会の中でどのように位置づけられるべきかを考える。しかしこの過程では、外部から与えられる思想に依存する一方で、それに批判的視点を持つこともまた必要である。思想は、個人が無意識的に従属してしまう罠となり得るが、自分自身の思考による訓練を通じて、外部の影響を超えた「自己の思想」を構築する力となる。人間が自己の思想を持つとは、外部の価値観に影響されつつも、それを咀嚼し、自らの内的世界で再構築する能力を指す。

 

思想の多様性

人間は苦悩し、恐れ、迷う存在だ。宗教は教義によって迷える人々を包み込み、苦悩や死への恐れを軽減する。また、同じ信仰をもつ者同士で価値観を共有し、共感の世界を提供する。しかし、宗教共同体の同調圧力や洗脳、精神的依存が生じることも忘れてはならない。

ところで、思想は社会基準を提供し、治世的秩序を構成する道具としての側面もある。民主主義、資本主義、社会主義、ヒンズー教のカースト制、儒教思想、プロテスタンティズムなど、歴史上さまざまな思想が生まれては消え、残り続けている思想がある。今後も人類は理想の社会像を追求し、その手段として思想を活用し続けるだろう。

思想の世界を哲学として捉えれば、それはプラグマティックに創造された観念上の空間である。本質的には想像的世界であることに留意しておこう。

最後に、私のライフワークである「人類哲学の独創」の「思想」にかんする項目については、さらに熟考を重ね原理論構造の中にまとめていく旨を誓い、本年の断想は筆を擱くこととする。

 

 

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