清き明きこころ


清き明きこころ


 

日本人の理想とする、きよきあかきこころ

私たち日本人にとってはあたりまえのことでも、世界は日本人をフェア(公正)な精神をもつ民族だと評価しているらしい。

けれど、グローバリゼーションによって国民交流が生まれ、世界の情報が簡単に手に入るようになった今、古来より現在に至るまで私たちが大切に育んできた、日本人の原点とする「清き明きこころ」が、徐々に失われているのではないだろうか。

グローバルスタンダードに右へ倣えするのではなく、グローバルスタンダードをみずから創りだす主体性を育もうではないか。

世界に恥じないどころか、永遠に世界一を誇れるクオリティーが「清き明きこころ」にはあると、私はそう信じる。

 

 

 


1.日本人の原点


 

日本最古の古典『古事記』や『日本書紀』に見られる、清きこころ、明きこころ。

清きは「浄き」でもあり、明きは「赤き」でもある。

反するのは「邪心」であり、「異心」「黒き心」「暗き心」「悪しき心」「卑しい心」「屈折した心」「人を侮蔑する心」「欺く心」などである。

 

『古事記』の「こころ」に、「心(こころ)」と「情(こころ)」の二つの表記が併用されていることを思えば、古来より日本人が大切にしてきた「情」の重要性が解る。情こそが人間の生命たる証である。

清明心(せいめいしん)は上代の一時期、天皇に対する臣下の忠誠心として利用された後、「正直のこころ」(ただしきなおきこころ)へ移行する。

近世に入ると中国儒教が日本型に改良され、「誠心」(まことのこころ)「誠実」が、貴い心の中心モデルとなる。

本来の日本人の誠実というのは、「嘘をつかないこと」「道徳を守ること」「社会倫理に従っていること」などの現象的、社会的、規範的、表層的なことではなく、深奥にある清きこころをあらわす。

他者への誠実は、心の底、魂のなかから、抑えがたい「自然の情」として現れ出でる。

 

 


2.大自然の摂理


 

日本人は大自然に包容される感覚をもって生きてきた。

大自然は私たちの外側にあるものではなく、私たちと一体としてある。

日本人のこころは、大自然を内在させ、大自然そのものである。

 

 


3.社会は必ずこころを穢す


 

あらゆる生物は生得的行為として自らの種を残す。

この目的をはたすためには死を回避し、種を残す戦いに勝ち子孫を残すために生殖活動を行う。生殖欲求が二次欲求を生み、更に二次欲求は三次欲求を生む。この欲求多重層が最も厚くなった生物が人類である。

人と人が群居し社会形成が行われるなかで、多重層の欲求が多様な人間模様の中で複雑に絡み合い、打算、欺瞞、付和雷同が生じ、必ず、内からも外からも人のこころは穢れてゆく。

そのままでは穢れゆくことが必定のこころに、無反省であってはならない。

 

 


4.清きこころ


 

清きこころとは、一点の曇りもなく晴れわたった空のような、澄みきったこころである。

透明な清流をつくりだす青山である。

穢れた空気を一挙に霧散させてしまう、颯爽とした快い風である。

 

 


5.明きこころ


 

明きこころとは、一切の陰や裏がなく、包み隠すことなく、後ろめたさのかけらもない、天真爛漫の笑みをふりまく朗らかなこころである。

活力の源となる、豊かな恵みを惜しみなく贈りつづける太陽である。

ポジティブに、前方を広く、大きく、遠くまで照らす、眩ゆいばかりの光の温情である。

 

 


6.こころの内の最強の敵


 

清き明きこころが最終的に、最も深奥にある闘うべき最強の敵は、自己欺瞞である。

 

 

 


7.倫理・道徳は必要ない


 

透徹した清き明きこころさえ国民にあれば、倫理観も道徳心も、あまつさえ法律も必要としない。

清明心廃れて倫理道徳あり。

倫理道徳廃れて法律あり。

 

 


8.純粋性の追求


 

清き明きこころに成るためには、意思に私心の無いことだけでなく、心情にも二心の無いことを徹底する。

こころにおける一切の妥協なき純粋性の追求である。

 

 


9.至誠


 

6世紀に中国から伝来した儒教はその後、江戸時代の武家社会の規範となり、明治以降も日本人のこころの中に脈々と受け継がれている。

しかし、中国儒教は「仁」を中心に教えを展開してゆくが、日本人はこれをそのまま受け容れず、古来より標榜・継承されてきた清き明きこころの純粋性を核心に置いた。

まことを貫く精神を中心に据え、至誠を重視する日本型儒教へと変貌を遂げた。

 

 


10.おのずから


 

清き明きこころの純粋性の追求は、みずからの思慮と意志によってみずからを律し、道理にかなった生きかたを求めるものではない。

なんら善徳を思慮・意志することなく、ごく自然に、おのずから道理にかなった生きかたになってしまっていることを求めるのである。

大自然の摂理を淵源とする「おのずから」の古代日本哲学が、清き明きこころを最も貴い人のこころと位置付けたのだ。

 

 


11.涵養する


 

どれほど清らかなこころをもち、どれほど高邁な志を抱いたとしても、人間社会に揉まれれば、過程が順風か逆風かにかかわらず、結果が成功か失敗かにかかわらず、こころの魂は必ず穢れてゆく。

清き明きこころをとり戻すためには、大自然の摂理に抗う己を内省し、丁寧に心魂を磨き続けるほかに方法はない。

近道はない。

長い時間をかけることをいとわず、腰を据えて涵養する。