三段の変化


Von den drei Verwandlungen

(The three Metamorphoses)


 

 

 


1.駱駝


 

畏敬の念を内に宿した、逞しく、忍耐強い精神にとって、多くの重いものがある。この精神の逞しさが、重いもの、そして最も重いものを望むのだ。

どのようなものが重いか、と忍耐強い精神は問う。そして駱駝のように膝を折り、どっさり荷を積んでもらおうとする。

(中略)

重荷を負って、沙漠へ急ぐ駱駝さながら、こうして忍耐強い精神は、おのれの沙漠へと急ぎ行く。

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p39-40)

 

駱駝が背負う重荷とは、広義では「世の中の価値観・文化習俗」、狭義では「キリスト教的価値観」になると思います。『ツァラトゥストラ』における第一部のテーマは、「神は死んだ」と神のアンチテーゼとしての「超人」ですので、後者の「キリスト教的価値観」に絞り込みます。

もちろん他宗教や他の民族習俗と一致する価値観はあります。

「キリスト教的価値観」に絞ったのは、ツァラトゥストラによって命名された町の名 「まだら牛」 に込めたであろう理由からです。

 

 

数いる駱駝のなかでもこの駱駝は、子どもの頃からキリスト教教義に洗脳され、謙虚に、同情心深く、忍耐強く生きることを「善」だと信じ、できるだけたくさんの重荷を背負おうじゃないかと、それが自分の果たす役割だと気づいた末に生まれた、忍耐強い精神です。

この駱駝の精神は、生きる目的をキリスト教に定められた奴隷的精神と言えます。けれど駱駝にはその道しか見えなかったのであって罪はありません。むしろ忍耐強く愚直に重荷を運ぶ精神は立派です。

「おのれの沙漠へ急ぎ行く」 では「おのれ」を見過ごしてはなりません。この忍耐強い精神のなかで沙漠へ向かう、言ってみれば精神自体が沙漠化してゆくということです。

沙漠が何を意味するかと言えば、潤いを無くした心、生きる主体的な意味に絶望し、心は機械のようになってゆく、生まれてきた意味はなんだろう、ただ生まれて死んでゆくだけで私の生の意味など無いじゃないかという虚無感。そして無気力化が始まる。

沙漠はニヒリズムの象徴であることに気付きます。

 

 


2.獅子


 

だが、この上もなく孤独な沙漠で、今や第二の変化が起こる。精神はここで獅子になる。彼は自由をかち取って、彼を取り巻く沙漠の支配者になろうとする。

彼はここで、彼を最後まで支配した者を呼び出す。彼の最後の主と最後の神を敵に回し、勝利を賭けて、巨大な龍に死闘を挑む。

(中略)

新しい諸価値の権利を手に入れること――これは、忍耐強く畏敬に溢れた精神には、そら恐ろしい所為である。まことに、それは彼にはひとつの強奪であり、猛獣がすることなのだ。

かつて精神は、あの「汝なすべし」をおのれの至聖なるものとして敬愛した。今彼は、この至聖なるものの中にも妄想と恣意を見抜き、こうしておのれの愛からの自由を強奪せねばならない。

この強奪のために、獅子が要るのだ。

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p40-41)

 

虚無感、無気力のままニヒリズムの世界を歩く駱駝の精神に変化が起きます。

私の生きる“意義”を求めたい。自分が主体的に生きることを欲求する。

私は自由になるのだと欲求する。

しかし自由になるためには、私の精神に積み込んだすべての重荷をおろさなければならない。そんなことをすればただじゃすまないだろう。キリスト教の神は、私を許さないに違いない。

また、駱駝の精神としての役割を放棄し、皆の期待を裏切ることにもなる。

 

忍耐強い駱駝の精神から、新たに自由な精神をかち取るためには、とてつもない勇猛さが必要だとなって、百獣の王ライオンの出番となるわけです。

「俺は自由が欲しいんだ!がぉ~!」っと吠える、勇猛果敢な獅子の精神が生まれました。

主体的な生を強奪するために。

 

 


3.巨大な龍と獅子の死闘


 

精神が、もはや主とも神とも呼ぶを潔しとせぬ巨大な龍とは何であろうか? 「汝なすべし」が、この巨大な龍の名前である。だが、獅子の精神は言う、「われ欲す」と。

「汝なすべし」が、精神の行く手を阻む。この有隣動物は燦然たる金色を放ち、その鱗の一枚一枚には「汝なすべし」の文字が光っている。

千年の重みを帯びたもろもろの価値が、この鱗の上に輝いている。そして、すべての龍の中でも最も強大なこの龍は語る。「もろもろの事物のすべての価値――それがこの身に輝いている。」

「一切の価値は、もうすでに創られたのだ。そして、これら創られた価値のすべて――それがわたしだ。まことに、いかなる 《われ欲す》 も、もはや存在してはならない」と、龍はこう語る。

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p40-41)

 

 

「すべての龍の中でも最も強大なこの龍」 とありますので、最も強大なこの龍はキリスト教教義、他の龍はイスラム教や仏教などの多宗教教義と解するのが自然でしょう。

「汝なすべし」 の命令のもとに、もろもろの価値を強要しつづけ、信仰の名のもとに人々を鎖に繋ぎ、重荷を背負わせ、思想の自由を奪い続けてきた龍にとって、この自由を欲する獅子の精神は絶対に許してはならないものです。

一つの心の中で、龍の既成秩序と、自由を強奪しようとする勇猛な獅子の精神が死闘を繰り広げる、内的闘争を表しています。

このシーンで留意しておきたいところは、獅子は龍を倒していないという点。岩波文庫の解説には「龍を倒した」とありますが翻訳者の思い込みです。「ここは俺の領域だ。出ていけ!」というのが獅子の咆哮でしょう。第四部の終盤にも、獅子の咆哮によって迷いの根源のようなキャラクターが退散していくシーンが描かれています。

駱駝の精神は、ごく自然に獅子の精神を生みだしました。

しかし獅子の精神は、「新しい創造のための自由の創造」 であって、純粋に目的的に存在しており、龍を追い払うことによって自然に無垢なる幼児が誕生するわけではありません。

いかにして龍を追い払ったか、追い払うにはいかなる手段が必要なのかなどについては触れていません。また、追い払った龍は舞い戻ってこようとするのです。

今後の第一部では、その外堀を埋めていくがごとく語られてゆきます。

 

 


4.無垢なる幼児


 

しかし、わが兄弟たちよ、言うがよい。獅子ですらできなかった事柄で、幼児にできることは何か? なぜ強奪する獅子が、さらに幼児になる必要があるのだろうか?

幼児は無垢、そして忘却、ひとつの新しい始まり、遊戯、おのずから回る車輪、初元の運動、そして聖なる肯定だ。

そうだ、わが兄弟たちよ、創造の遊戯のためには、聖なる肯定が必要なのだ。今こそ精神は、おのれ自身の意志を意志する。世界を喪失した者が、おのれの世界を獲得するのだ。

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p41-42)

 

無垢なる幼児には何の善悪価値もありませんし、何の社会習俗の束縛も受けません。ただ無邪気に生きる、欲するままに遊ぶだけです。

無垢なる幼児だからこそ、自由な創造が可能となる。

ちょっと待ってください。何も知らなければ創造もなにも出来ないのではないか?という疑問が浮かびます。あらゆる価値が無価値の状態から、有の価値が生まれるのかどうか、です。

それがたとえ「精神」であるにせよ、矛盾していると考えました。

 

 

「創造の遊戯のためには、聖なる肯定が必要なのだ」

この文章における、「聖なる肯定」 は、第三部で展開される「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思います。

そうするとどういうことかと言えば、永遠回帰の思想を理解し納得しなければ聖なる肯定ができない、聖なる肯定ができなければ創造の遊戯ができないとなる。

そして意味深な次の言葉。

「今こそ精神は、おのれ自身の意志を意志する。世界を喪失した者が、おのれの世界を獲得するのだ。」

太字で示した部分はニーチェ自身が原文で強調した部分です。前半は「力への意志」の思想を予感させます。無垢なる幼児の誕生。ここまでは熟読すればわかる。

しかし遊戯をするためには永遠回帰が必要だというロジックが隠されている。永遠回帰の世界に至らなければ、無垢なる幼児は聖なる肯定ができない、創造することができない。と同時に、聖なる肯定がなぜ創造を生むのかというロジックも明かされていない。

私はこの一文に、「永遠回帰」の思想へのヒントがあることを直観しました。

 

 


5.まだら牛という名の町


 

その頃彼は、斑牛(まだらうし)という名の町に滞在していた。

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p42)

 

私が『ツァラトゥストラ』で、直感的に最初に引っかかったところは、この「まだら牛」という町の名でした。ずいぶん経ってから、ちくま学芸文庫版の訳注に「華麗な女性の意味」であるとか、「仏陀が説教した町の名」であるとか書かれていることを知り、ふーんそんなものなのかと半ば自分を納得させていたのでした。他の翻訳書の訳注や解説では言及されていません。

どうもむずむずする。さらりと流していいように思えない。

なぜなら、『ツァラトゥストラ』において固有名詞が使われているのはツァラトゥストラという名前とまだら牛という町の名前だけなのです。

和訳本では、白水社版、ちくま学芸文庫版、中公クラシックス版、鳥影社版の四書で「まだら牛」、岩波文庫版では「五色の牛」、新潮文庫版では「彩牛」と訳が分かれています。

原著にはこうあります。

die bunte Kuh

Kuh は牛を意味しますが、牝牛を意味する場合もあって、どちらだろうと考えていたところ、次の章の「徳の講壇」で「牝牛」が登場していて原文で Kuh となっており、また、第2部の「崇高な人たち」の章で「牡牛」が登場し Stier と原文で書かれていたので、牝牛で良いと思います。

英訳では The Pied Cow となっています。牡牛には Ox が使われているので牝牛ということで良いでしょう。

buntebunt とも書きますが、直訳すると「カラフルな」です。複色という意味にもとれますので、現実的には「まだら牛」、直訳であれば「五色の牛」「彩牛」になるのでしょう。

 

 

この「まだら牛」という名の町には、第一部終了までツァラトゥストラは滞在します。その後、第三部の「変節者たち」という章で立ち寄りますが、共通点は、「信仰心の町」なのです。

町をひとつの塊と捉えると、キリスト教の教義によって家畜化された町、という像が浮かび上がってきます。どこの学者もそんなことは書いていませんので、単なる個人的推理なのですが、そう考えると、ツァラトゥストラの旅が見えやすくなってくるとは思いませんか?

ちなみに、第一部の最終章「贈与する美徳」においては、「彼の心に適った町」とありますが、ツァラトゥストラは第一部でこの町のほとんどに失望しているのです。要するに、ツァラトゥストラにとって「精神の負荷」となったことを、彼は歓迎して「心に適った町」としていると解します。

第三部の「変節者たち」では、「まだら牛」を「彼の愛した町」と一見良いように書いていますが、この章の中に次の記述があります。

 

わたしと同類の人間は、やはりわたしと同類の体験に出合うだろう。彼の最初の道連れは、屍体と道化師であるに違いない。

だが、彼の第二の道連れ――自ら彼の信奉者と名乗るであろう者たちは、生きた群衆、そして多くの愛と愚行、多くの子供っぽい崇拝であるだろう。

人間の許にあって、わたしと類を同じくする者は、その心をこうした信奉者たちと縛り合わせてはならない。移ろいやすく臆病な人間の性(さが)を知る者は、この春と花咲き乱れる野辺を信じてはならない!

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p265)

 

こうしてツァラトゥストラが批判の対象にする人たちの住む町を、「愛した町」とするのは、やはり「乗り超えるべき負荷としての壁」なのです。この章では、キリスト教信仰をやめた住人が再度信仰し、信心深くなってしまう様子が描かれます。住民は脱皮できない。

「まだら牛」 という町は、美しい街ではなく、仏陀が立ち寄ったような街でもない。

乳牛として家畜化され、キリスト教教義に「汝なすべし」と言われるままに精神の自由を放棄し、神のために自らが絞り出す乳を捧げ続ける住人が暮らす町なのです。

ニーチェは皮肉をこめて、 「まだら牛」 という名前を付けたと解します。