人生意義のセオリー(5)共感


 

黄昏人モード

前の記事からのつづきです。

人生意義のセオリーとして「志」と「自己実現」を掲げました。この二つに集約できると考え、次は「何を」するのか「企画」の段階へ入ろうと計画していたのが約一ヶ月前。しかしこの一ヶ月のあいだに現代社会の問題点(少子化や「自由」について)のさまざまな考察を行った結果、この二つだけではいけないと思うに至り、考えを改めることにしました。

「志」と「自己実現」はいずれも外へ向けて形づくられるものです。一つの、或いは複数でも良いのですが、目的に照準が合わされます。ある程度、遠い未来に。ある程度、大きな社会を世界として視野に。自己実現はもちろん、志が社会善を志向するものだとしても個人的価値観(延長)上の人生意義の範疇です。

しかし人類が皆、この二つだけを人生意義として生きたらどうなるでしょう。

おそらく人類は絶滅します。というのは、子どもをつくらなくなるからです。結婚もしなくなる。志にせよ自己実現にせよ、自分の時間と労力を自分のためにのみ使う方が圧倒的に有利であり、守るものを抱えないほうが有利です。精神的なストレスも減りますし自分の自由度がなんといっても大きい。

外形上は志も自己実現も華々しく映り、誰もが憧れをもちます。目に見えるはっきりとした実在があるのでわかりやすい。けれどそれと引き換えに、「偏向した自由社会や自己実現を標榜する人たち」は子孫を遺さなくなり絶滅へ向かいます。現代日本を見ても欧米先進国の“白人”の急速な減少化を見ても、この端緒が現れているように思います。

 

今回の記事のテーマに掲げた「共感」は、主に内面において大きな人生意義となることに気づきました。いや、哲学者のマックス・シェーラー(1874-1928)が主張したように、むしろこちらを土台とすべきかもしれません。

以下では、内面的にはたらく「共感」「愛」「情」について考察します。

 

1.共感

おそらく人類の最も原初的な価値感覚のひとつです。

人類は社会を形成しました。猿人、原人、古代人の時代、一人で生きるより、一家族で生きるより、集団を形成した方が生存に有利だと、数万年数十万年をかけて気づいたのだろうと思います。敵となったのは獰猛な動物だけでなく、人間の他の集団も敵となることが多かった。食べ物の争い、なわばりの争い。

集団を形成するために、その形成された集団の一員になるために、共感を必要とした。

共感理論は、ほぼ同質の理性的価値観の共有、ほぼ同質の感情的価値観の共有、この二つに収斂されると考えています。

哲学者二人の見解を含め事典から引用します。

共感(sympathy)

共感は人間の自然的情緒であり、人間社会の基礎である近親感情や友交を生み出すものである。人間はその生存において他者に依存せざるを得ぬため、生活のごく初期から他者の動作や表情の意味を解釈することを学ぶ。

【ヒューム】人間は他者の行為を観察し、自己の経験と想像力によってその行為の動機である感情を感知する。(…ヒュームの)共感原理の説明は極めて画期的であり、共感はもはや同情や憐憫を意味するものではなく、道徳的判断を行う重要な心の作用を意味し、さらに自己の利益と直接関係しない社会的利益を是認し、正義の規則を敬重する感情も共感によって生み出されるとされる。共感は道徳的判断に際し、利己的な判断に対する被害者および第三者の非難の感情を知覚し、次第に理性に類似した穏やかにして強力な情念へと転化し、大きな変動を許さぬ公正な判断基準となっていく。

【シェーラー】共感とは通常「共歓および共苦と呼ばれる過程」、つまり他者と共に喜び、共に苦しむ体験、その限りでまた、われわれにとって他者の諸体験が直接に理解されるように見え、その諸体験にわれわれが直接に〈参与〉するような過程のことである。こうした共感は、一方では〈追感得〉、つまり感情移入の経験から区別され、また他方では単なる一体感とも区別される。直観的にいえば、死児を前にした父母の悲痛の共有、そこに見られる〈相互感得〉が、その典型的な場面の一つであるともいえよう。

(『岩波哲学思想事典』p338-339)

共感論にかんしては他にも、マクドゥガル、ボダン、シャフツベリ、ハチスン、ハートリ、スミス、カントら諸学者の研究による見解があります。

ヒュームの言説を読む限りにおいて、共感は自然感情(情緒)を基にし、社会的に協働して生活を営むためには相互の感情を損ねないことを必要とした。その共感が道徳化し、社会秩序や正義となって理性としての価値が定着した。理性としての価値が定着すると、属する共同体の一員となるために理性的価値観の共有が求められ、その共有を阻害する「悪」の価値に対し悪感情をもち、その悪感情の価値を共有することが求められる。こうして感情的価値の共有と理性的価値の共有が共感として固められてゆき、安定した社会秩序を形成する。要約すればこのような思想構造だと思います。

マックス・シェーラーは哲学者として異彩を放っています。子どもの頃に父親から推薦されたニーチェを読み、大学の卒業後はフッサールに師事し現象学を学びました。ハイデガーの兄弟子にあたります。外向的かつ社交的で、しかし何事も中途半端で放り出し次の関心事に気が向いてしまう。離婚を二回経験し結婚は三回。教授の資格を約十年間はく奪されジャーナリスト的なライターとして活動した時期もあった。いわゆる「孤独に徹する内向的な変人」といった哲学者イメージとは程遠く、ゆえに幅広い社会経験によって相互共感性の機微をよく理解していたのでしょう。

理性よりも感情を人間学の土台とするマックス・シェーラー。彼の「愛の秩序」理論について学び始めました。共感というキーワードは、私の新しい哲学的美学論において、貴重なひとつのピースとして編入されました。今まで共感について深く考えたこともなかったですし、こうして考えることになるとは思ってもみなかった。とても新鮮な気持ちです。

アイデンティティの確立にかかわる帰属欲求、社会やコミュニティで自分の存在価値を認めてもらいたいという承認欲求、社会的地位や名声を得たい、権力を得たい、金銭を得たいなどの自己実現欲求、公的な志を抱くことも含め、これらすべての土台に「社会の一員としての共感」があります。共感なくして社会的欲求は起こらず、成立しません。

 

人生意義のセオリー(6)愛 へつづく。