巨人の肩の上には乗らない


知の創造にはオリジナルなどなく、先人たちが積み重ねてきた業績を土台として展望を開いてきたという思想がある。進歩主義思想である。先人たちを「巨人」として喩え、我々は巨人の肩の上に乗って遠望することができるなどと言う。ニュートンが述べた言葉とされる。

ゼロから知の創造を立ち上げることなどできないと、まるでそれが真理かのように語る人がいるが、自分が進歩主義思想のドグマに飼い馴らされていることに気がつかない。

外山滋比古氏の『ライフワークの思想』に良い喩えが二つある。一つは花。花を切り花として花瓶に飾るのか、それとも種から育てるのかの違い。もう一つは酒。ジンだとかウイスキーだとかワインだとか、それらを組み合わせてカクテルを作るバーテンダーなのか、それともゼロから地酒を創ろうとするクリエイターなのかの違い。

ゼロから創造した人は極めて稀であり、創造を試みようとする人でさえ希少である。ゼロからの創造を試みた哲学者でいえば、デカルトとタレス、フッサールくらいしかすぐには思い浮かばない。老子もそうかもしれない。彼らはゼロからオリジナルの地酒を創ろうとした。他の哲学者や思想家は、釈迦にせよ孔子にせよ、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ヘーゲルら大哲人は、皆バーテンダーとしてカクテルを作ろうとした人たちである。

デカルトは進歩主義思想に立たなかった。すべての先人の知を疑った。「今、自分は考えている。考えている自分がいるのは確かなことだ」ここから哲学を始めようとした。ゼロから哲学体系を創ろうとしたのだ。哲学どころか学問すべてをゼロから体系化しようとした。そのライフワークが結実したとは言い難いが、ゼロから創ろうとするその姿勢に感銘を受けた哲学者は僅かながらいた。例えばフッサールは老年期に入る頃『デカルト的省察』を書き、以降、ゼロから認識論を創ろうとし間主観性と他我の理論化をライフワークとした。

巨人の肩の上から降りて、ゼロから独自の地酒を創ろうとした哲学者は稀ではあるが、いた。

もちろん、巨人の肩の上に乗って、効率的に展望を開こうとする大多数の人たちを批判するものでは無い。先人の知見の良いとこ取りをし、既に存在する酒を組み合わせカクテルを作ることは普通の人なら誰もが考えることだろう。

あくまで趣味の問題だ。私はどれほど非効率であっても、ゼロから地酒を創りたい派なのである。ライフワークとして創り始めている『人間原理論』はまさにゼロからの理論創造である。デカルトと同じように進歩主義思想には立たず、先人の叡智は常識を固めてしまう「重力の精」として最終的に退ける。

私は、巨人の肩の上には乗らない。

 

 

人生フィナーレの思想


「どのように生きればよいのか?」「どう生きようか?」

この問いが頭のなかを駆けめぐるという経験をしたことがない人は滅多にいないだろう。誰もが考えること。高齢になってもこの問いを考える人がいるかもしれない。一方で、ある程度の年齢を超えると「どう死のうか?」を考えるようになる。このことを考えない人考えることを避ける人もなかにはいるだろう。

「どう死のうか?」は人生において最も重いテーマであり、これを考えるとき、人は孤独である。生物の生命の終焉は独りであり、死の旅に同伴者はいない。みずからの人生物語の終幕をどのようなものにするのかは、いわゆる「老」の期間にどのように過ごすのか、自分の「老」にどのような価値を自分が与えるのかということと、ほぼ同義である。

なかには、「老」など関係なく、若い人と老いた人を年齢で差別するのはエイジズムであり、人間として平等であるという価値観に反すると言う人もいる。なるほど、よほど自分の変わらぬ能力に自信があるのだろう。しかし反省的に自分を見つめれば、十代のころの頭の回転の速さは明らかに鈍り、頭脳と肉体の疲労からの回復力が落ちていることに無自覚であってはならない。

「若」と「老」は人生全体の長さのうち、既に過ごした年月と、今から過ごす年月の割合が大きく異なり、それは、心理的に言えば主観的時間経過の認識に影響を与え、自身に残された時間的可能性にたいする価値観にも影響を与える。ゆえに、「どう死のうか?」という重いテーマと真正面から対峙する機会が到来し、それはネガティヴではなくむしろポジティブに捉えるべきテーマだと私は思う。

ところで、昨今の世相を鑑みるに、少子高齢化社会が進む未来に絶望感を抱く人たちが増加しているように感じる。特に生産性を要求される社会経済面や支出が膨らんでゆく医療福祉面において、高齢者は若者の足を引っ張る厄介者とする言説を目にするようになった。世代の分断化である。老人を敬うという文化は消滅しかかっている。なぜかと言えば、功利主義的価値観がまるで唯一の真理であるかのように現代社会を覆っているからにほかならない。役に立つか立たないかだ。そして高齢者自身も「老」に価値を見出せないでいる。人生フィナーレの思想が欠如しているのだ。

「老」に明確な価値を与える例として、世阿弥の『花鏡・奥の段』を挙げよう。ここには三つの「初心忘るべからず」がある。是非の初心、時々の初心、老後の初心がそれだ。人が老いてゆくときには老いるという初めての経験をする。今まで一度も経験したことのない「老い」を新鮮な未熟さとして捉え、「芸の底を見せないで生涯を送る」ことを芸道の奥儀として子孫を導く秘伝とせよと喝破する。世阿弥の能には、人生フィナーレの思想がある。

最後に、「老成」ということについて触れたい。辞書をひくと「人生経験を積んで人格に円熟味がそなわっていくこと。」というイメージになる。老成は目指すものではなく自然に成るものであろう。老成には功利主義的価値は無いかもしれないが、他者の心に良い影響を与えるであろうことは容易に想像でき、「老」のロールモデルとして壮年者の希望にもなり得る。老成に価値を見出す社会は、世代の分断を修復する可能性があるのではなかろうか。

老成はどのように確認できる概念だろうか。例を挙げよう。古い禅師の言葉に「古教照心、照心古教」がある。古典に心が照らされ、心が古典を照らす。特に大事なのは心が古典を照らすほうで、古典を正しく解釈して学ぶことよりも、自らの人生経験で培った心をもって古典に接し、味わい深い独自の解釈を可能にすること。このように私は「照心古教」を解釈する。どのような古典も新鮮なものとして生き返る。これが老成に至る学問の仕方だと思う。

私自身はまだまだ老成とは言えず80歳までは「成らない」と決めているが、老成に至る可能性のある学問は続けている。昨日の記事に書いたように私にはライフワークの事業がある。その知的創造事業のためには生ある限り学問をし続けていかねばならない。そして、ライフワークに生涯をかけることは、人生フィナーレの思想があるということだ。それだけで私は十分に幸せな者であり、それだけで幸せな「老」の道を歩むことができるという確信がある。

以上は、この断想記事の読者である貴方にたいして、「老」にかんする一つの価値観を提案するものでもあります。

 

 

 

本格的なライフワークとして


このウェブサイトの二つの柱である『人類哲学の独創』と『私の美学建設』を創っていくことは、私のライフワークとなった。ライフワークにしようと目的化したのではなく、いつしか自然にそうなった。

「ライフワーク」[ lifework ] を辞書でひくと次の意味が出てくる。

    • 一生をかけてする仕事や事業。畢生の仕事。(広辞苑第六版)
    • 一生をかけた仕事や作品。畢生の事業。(大辞林第三版)
    • 一生をかけてする仕事。畢生の事業。また、個人の記念碑的な業績とみなされるような作品や研究。(大辞泉)
    • 一生の仕事。生涯の中で主要な仕事。一生かかる仕事。(ジーニアス英和大辞典)
    • 畢生の仕事。(ランダムハウス英和大辞典第二版)
    • 一生の仕事。畢生の仕事。(新英和大辞典第六版)

日本語では「畢生の仕事(事業)」ということなので「畢生」を辞書でひく。

    • 命の終わるまでの間。一生涯。終生。(広辞苑第六版)
    • 生まれてから死ぬまでを通じた全部の期間。一生。生涯。(大辞林第三版)
    • 一生を終わるまでの期間。一生涯。終生。(大辞泉)
    • 一生を畢るマデノ意。一生。生涯。終生。(大言海)

畢生の「畢」は「終える」意とのこと。(大漢語林)

一生涯をかけた(終生の事業)と言える仕事や事業。裏を返せば死ぬまで終わることのない、一生のすべてをかけた仕事や事業ということになる。

他者から客観的な評価によって「畢生の事業」と承認されることがライフワークなのだろうか?いやいやそうじゃないだろう。みずからの矜恃に照らして、「これが俺のライフワークだ。命尽きるまでの生涯をかけた仕事だ。終生の大事業だ。」と言えることがすべてだろう。そうだ、ここで肝心なのはみずからに対するみずからの矜恃であって、他者や社会に対し胸を張るプライドや誇りではない。

本格的なライフワークとして、やり遂げる。

令和6年 元旦。

 

 

ミンスキー『心の社会』


この本では、心がどうはたらくかを説明しよう。知能は、知能ではないものからどのようにして現れてくるのだろうか。この問いに答えるために、この本では、心がたくさんの小さな部分を組み合わせて作れることを示そうと思う。ただし、それぞれの部分には心がないものとしよう。

このような考え方、つまり、心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を、《心の社会》と呼ぶことにする。また、心を構成する小さなプロセス一つひとつを、エージェントと呼ぶことにする。心のエージェントたちは、一つひとつをとってみれば、心とか思考をまったく必要としないような簡単なことでしかない。それなのに、こうしたエージェントたちがある特別な方法でいろいろな社会を構成すると、本当の知能にまで到達することができるのである。

(産業図書版 安西祐一郎訳 マーヴィン・ミンスキー『心の社会(The Society of Mind』)』

 

ミンスキーの大著『心の社会』は上記の文章から始まる。

ひとことでいえば、この本との出会いに大感謝である。最近、出会うことができた。どこかで、ギルバート・ライル『心の概念』に対してミンスキーが『心の社会』を書いたというような内容の文章を読んだのがきっかけだった。ライルの『心の概念』は私の愛読書のひとつなので。ふたりとも「心」をタイトルに入れているがライルは哲学者、ミンスキーは科学者であり、心理学者ではない。

マーヴィン・ミンスキー(1927-2016)は、マサチューセッツ工科大学(MIT)で長く教授を務めていたユダヤ系アメリカ人。数学の博士号をもつ。バリバリの理数系の人で、同大学の人工知能研究所創設者のひとりである。コンピューターサイエンスを専門とする科学者が、1987年に『心の社会』という本を著した。日本での翻訳書は1990年に出版され現在21刷。574ページでしかも二段組の大著だというのに4300円+税は安い。

しかし、いわゆる「読書家」が好むような本ではない。一冊を完読して内容を理解しようとしても、たぶんほとんどの一般読書家は挫折するに違いない。仮に読了できたとしても完読に意味はない。

この本は、私が人間の原理を哲学的に解剖していくことと同じように心の解剖を行っている。思考する論理構造の志向性が私と同じなのだ。だから一冊をとおしてこういうことだ、というのではない。断片的に読める。上記引用にあるとおり、「エージェント」たちが《心の社会》を創造する、なぜ創造できるのかはわからない。でも、原理としてそうなっているじゃないか。ならば、「エージェント」ひとつひとつについて精緻に分析してみよう、という試みだ。心理学臭は一切ない。科学者が人工知能をつくるために哲学をしている、という見かたが相応しい。

「エージェント」は多岐にわたり、全部でいくつあるかまだわからないが、章立ては第30章まである。興味を惹かれる章のタイトルを抜き出してみると、第2章「全体と部分」、第3章「争いと妥協」、第4章「自己」、第6章「洞察と内省」、第8章「記憶の理論」、第11章「空間の形」、第12章「意味の学習」、第13章「見ることと信じること」、第15章「意識と記憶」、第16章「感情」、第18章「推論」、第20章「文脈とあいまいさ」、第22章「表現」、第24章「フレーム」、第28章「心と世界」、第29章「思考の領域」、第30章「心の中のモデル」。30章全部が魅力的だが、特に魅力的な章タイトルを抜粋してみた。私がライフワークとして取り組んでいる『人類哲学の独創』と重なる部分が半分程度ありそうだ。

章タイトルが魅力的だけでなく、ぱっと任意のページをめくってそこの項目を5分ほど読むと、必ず哲学的なインスピレーションが得られる。私が独創するためのインスピレーションを与えてくれる、今まで出会った本の中で最高の本と言ったら褒め過ぎだろうか。いや、褒めているのではなく、私との相性が最高の本なのだ。なにしろ私は古典的な哲学書を「事典」のように扱う。そのなかの一文が何らかのインスピレーションを与えてくれることが最大の期待であり、プラクシスやテオリアよりもポイエーシスを好む。

内容については、別の固定ページに研鑽のひとこまとして綴っていく予定。

というわけで、もし私と同じようなポイエーシス的な哲学クリエイター志向の人がいらっしゃれば(滅多にいないと思うけれど)、この本を強くお勧めしますし、一方で、研究者タイプの人にも参考になるかもしれません。

 

 

「一部を全部」体系的に


最近特に思うことだけれども、人間の原理について一部を説明できても、実質的にはその一部さえも説明不完全となる。あたりまえなんだけどね。例えば「思考」の原理を説明するとしよう。思考するには概念が必要不可欠になる。思考についてのみ完全に説明できたとしても、概念の原理を説明できていなければ思考原理についての説明は不完全だ。思考には直観原理も価値観原理もある。身体性原理との関係性もあり社会と自分の関係性原理もある。関係性原理はネットワークのように網羅的に存在している。つまりだ。全部の原理を体系的に説明しなければ、一部の原理の説明も不完全となるというわけだ。

これは、もしかすると趣味の問題なのかもしれない。過去の哲学者をみていっても、全部の原理を体系的に説明しようとしたのはアリストテレスくらいしか頭に浮かばない。しかし他にも同じ趣味の哲学者はいたと思う。ただ、彼らが生きていた時代にはインターネットで情報収集することができなかったし、人工知能を使って、例えばChatGPTと365日24時間いつでも自分の都合で議論を始められる環境もなかった。

現代では、こうして自分のウェブサイトを創ることができ、キーボードで素早く文章を作成し修正も簡単にできる。議論は、人工知能という知能だけとれば千人の天才アシスタントが相手をしてくれているようなもので、100年前と比較すれば100倍以上の効率性があると思う。すごく恵まれた時代にいる。

ゆえに、人間原理の全部の仕組みとダイナミズムを精緻に哲学し、体系的な原理論を独りで創造できると確信している。

私には日本人の特質である職人気質の一面があって、何かを創る際には妥協を許さずに完璧さを追求する。どこまでも精緻であることが美しく価値のあるものだという価値観がある。日本の職人がつくるものには、伝統工芸品や建築物、農業生産品、料理、時計、精密機械、時刻通りに動く電車の発着などがある。それらの創作過程における完璧主義には、創造性が必ず要求される。哲学理論の創造にも、日本人らしい職人気質の精緻で美しさを求める完璧主義があっても良いだろうし、今までなかったことが不思議ですらある。

私は、共創ではなく独創でなければ流麗な《すがた》にならない、アーティスティックなフィロソフィカル・セオリーというのがあると思っている。

 

 

 

エピソード記憶に対する批判


記憶は記録なのだろうか。記憶は記録と呼べるものなのだろうか。今日、ふいにこの疑問が立ち上がった。「記」という漢字を使うのは誤解のもとではないかと考えた。記憶はすべて記せるものなのか。記せないもののほうがほとんどではないのか。一方で記録は記したものであり記せないものを記録とは言わない。

人は自分自身の記憶とその想起しか体験できない。そこから他人にも記憶という仕組みがあるだろうとか、同じような仕方で記憶しているのではないかとか、推測の域を出て確信してしまっている感がある。記憶と記録の本質的な違い、記憶の相互主観性による客観理解については、エッセーで書ける分量ではないので今回は横に措く。

人間の記憶について、科学的にはほとんど解っていない。心理学者が現象からの統計などを使ってそれらしい論で説明するが、とてもじゃないが信用できるレベルにない。1972年に心理学者がつくりだし、その後に流行となっている「エピソード記憶」なる概念について、少し考えてみよう。

エピソード記憶のエピソードはその名のとおり欧米語であり、欧米の “episode”という概念を使っている。日本人の個々が抱く「エピソード」概念とは少々違っているかもしれないことを念頭に置こう。

まず三省堂の『英語語義語源辞典』で [episode] を調べてみたが詳細についてはほとんど解らない。次に研究社の『英語語義語源辞典』で引いてみた結果を以下に引用する。

[episode]
1《1678》(ギリシア悲劇の、二つの合唱の間にはさまれた)対話の段、エペイソディオン。2《1679》(詩・物語中の)挿話、エピソード。3《1773》(生涯・一国の歴史などにおける)挿話的なできごと、逸話。4《1869》〈音楽〉(フーガ・ロンドなどの)挿入部、間奏。

最後の音楽に使われる [episode] は、それまで使われてきた語義語感の応用だと考えてよいだろう。3までに共通しているのは「話」であり、意味内容をもつ。例えば卒業式のワンシーンであるとか、危険な目に遭ったワンシーンであるとか、「そういえば、あの時にあんなことがあった」とか。そうした意味内容をもつ記憶は「記」であり言葉でできている、というのがほとんどの心理学者や一部脳科学者の主張である。言語化ができるということだ。あるいは言語によって海馬あたりに格納されていると主張する者までいる。

本当にそうなのか?

私の場合、過去の記憶は言語ではなく映像で憶えていることがほとんどだ。しかもエピソードではない。話の意味内容はない。例えば、小学生の頃に通学路を歩いていた感覚や印象、記憶映像には「感じ」が最優先されている。感情ではなく感じだ。その感じは日本語のオノマトペ言語によっても表現できない。私のこころから1ミリも出すことができない。加えて言うと、入学式や卒業式など、何かのイベントのエピソードは、写真などの手掛かりが無ければ何一つ立ち上がってこない。一方で意味内容がなく、特に憶える必要も内容的感想もないような映像シーンと「感じ」については、相当な量の記憶を意志のみによって立ち上げることができる。

言語的な意味内容の記憶を立ち上げようとする際には、私の場合、映像シーンを探そうとする。そのときの「感じ」を想いだそうと、特に「場」を探す。地理的空間的な「場」や、誰と誰がその場にいてどういう感じの「場」だったかを探し出そうとする。年月は一切関係ない。その映像シーンを想いだして特定した後に、言語的な意味内容といつだったかが確認される。私と似たような記憶の立ち上げかたをする人は、他にもいると思うのだ。

そうした体験に基づくと、心理学者のいうエピソード記憶という概念は、一部の人たちの傾向に過ぎないと言える。嘘っぱちだとまでは言わないが、少なくとも普遍性があるものではない。心理学のエピソード記憶概念が妄信され、その論理が基盤となって他の論理と関連付けられてしまえば、誤った方向へ人間原理が導かれてしまう。

記憶のメカニズムそのものと、想起のしかた起こしかたは、もしかすると数パターンに分けられるのかもしれない。個人によって特性があることは明らかだろう。記憶メカニズムに個の多様性があることは、人間社会にとって歓迎すべきことだと思う。

今日の主張のまとめとして次のことが言える。現在のところ普遍性のある記憶構造と力動について、画一的に単純記憶とエピソード記憶に分けることは恣意的であり、メカニズムのほとんどは発見もされていないという見地に立ったほうが哲学的探究の可能性にひらかれるということだ。

あなたの記憶はどのように機能しているだろうか? そのメカニズムはあなた独自のものであり、他者とは異なる可能性が十分にあることを、是非再認識していただきたいと思います。

 

 

おまえがやらねば誰がやる


モチベーションをつくるために、内心で自分を叱咤する。俺がやらねば誰がやるではなく、おまえがやらねば誰がやるとするところがポイントで、天の声が自分に刺さるようにする。

世のなか捨てたもんじゃないと思うことがある。何の得にもならないのに誰かのためにと一所懸命に尽くしている人や、残りの人生を日本の将来のためにと無私の精神で身を削っている人を見ることがある。そういうすがたを目の当たりにすると、「おまえは何をしてるんや?」「おまえがやらへんかったら誰がやるねん?」という天の声が聞こえてくる。

俺ができることは、日本のためにとか世界平和のためにとか、困っている人のためや社会のためということではない。そういうことはマジョリティーの皆さんにお任せします。それぞれに使命感をもって身を尽くすのであれば内容は何でもいいじゃないかと思う。そうした行動に出ている皆さんは素晴らしい。

将来の日本を憂う気持ちは俺にもあるけれど、それを直接的に目的化して行動する人たちとは別行動をとる。俺は俺にしかできないことを、誰にもできないことを間接的に死ぬまで目立たないようにやる。使命感だけは誰にも負けない。ろくでもない人生を歩んできたツケがたまっているから、誰にも負けないほどに返さなあかん。

情熱の炎が消えるときは俺自身が消えるとき。そのときは生きててはいられない。とりえがそこしかないからねえ。

「使命」というと、誰かにやらされる感をもつ人がいるかもしれない。義務に似た語感のイメージ概念を使命に重ねる人がいるかもしれない。俺には、それは一切ない。なにしろ天の声だから。ところで、「何のために生きるのか」を考える人は山ほどいるだろう。答えがなかなか見つからない人もいるだろう。どうせ死ぬのにと、ニヒリズムに陥る人もいるだろう。

その問いかけには、「俺には使命があるから」と答えたい。

 

 

独創哲学のメニュー決定


8月6日と9月21日に「独創哲学の仮メニュー」を段階的につくってきた。ようやく仮ではなく「本メニュー」ができた。私の生きる残り時間から逆算しても、このメニューが根幹的決定版になる。もちろん枝葉の箇所は流動的で、変更する可能性が高い。柔軟性を失わないようにしたい。

当サイトのメインコンテンツである「人類哲学の独創」に、『人間原理論』としてメニューをつくった。

「人類哲学の独創」

また、上記の説明で「哲学」という言葉が頻繁に使われるため、私が用いる「哲学」概念についてもまとめた。上記のページ上にも見つけやすいようにリンクした。

「哲学と哲学学」

 

このウェブサイト全体構成を見直し、サイト内URL(パーマリンク)を整理整頓し、構造をきちんとしたものになるよう整備した。俺は自分のウェブサイトのアクセス分析だとか解析が超の付くほど苦手なため(というか全然興味が向かないため)、Googleアナリティクスには無頓着で、それはこれからも大して変わらない。ところが一応登録してあるGoogleから毎月苦情メールが山ほどくるので、メールを無視するのをやめてきちんと整備することにしたのだ。

プロフィールコンテンツはほぼ完成。プライバシーポリシー、著作権関連、サイトマップまで全て整備した。

自己研鑽コンテンツも構成をし直した。まだ内容は全然不足で穴だらけだけれど、構造は満足するものができた。

というわけで、全体の構造はきちんと出来上がった。今後は個々のページを埋めていって内容を充実させていくことに専念できそうだ。

構造設計はとっても大切で、且つ、サイト全体の立体空間の構成を考えるためには、右脳をフル回転させねばならないということを再認識した。構成をいちいち書き出さずに、頭の中でぜんぶやるからだろうね。そのほうが俺にとっては圧倒的に効率的だから。

 

 

人生美学の生成のされかた


子どもの頃には人生美学など考えもしなかった。成人するまでも大人になってからも、自分が何かになりたいとか、自分はどうあるべきかとか、自分の行動指針だとか、あるいは信念だとか、私の場合は一切考えたことがなかった。エネルギーが内側の自分へと向かわないのだ。心理学でいえば極端に典型的な外向性タイプである。自分が何かになりたいのではなく、何をしたいかだ。それは今も変わらない。

だから、意志をもって、目的的に人生美学を生成しよう、こう生きるんだという指針をみずから創ろうと思ったことは一度もない。つまり、私の場合は「私の美学建設」というテーマの内容は、すべて自然生成的につくられたものとなる。

これは実に日本的なのだな。欧米的や中国的であれば、みずから意志をもって主体的に創造しようとなるだろう。私には、そういう目的も意志もなく、ありのままの自然体の内部で、矛盾と混沌を抱え込みながら蛹の内部のような液状状態から「人生美学」が客体的に創られてきたし、今も創られ続けていると言える。つまり私が人生美学のコンテンツを創るには、既に私の観念世界に生成されている美学規範と生成されつつあるそれを言語化すればよい。もちろんその中には未だ不完全で「こうなる感じがいいな」という憧憬も含まれる。

今日、このウェブサイトの構造を整理し直していて、「私の美学建設」コンテンツの内容も少し見直した。主に構造の整理をやっていて、サイドにナビゲーションメニューを付けたり多言語翻訳を外したりした。ナビゲーションを付けた手前、やらなくちゃという気持ちが芽生え、時間を忘れるほどに集中していろいろやった。

私の美学について客観的にカテゴリーと項目の整理をすることによって、明らかな自分の傾向に気がついた。やはり、私という人間の本質は主に情熱から生成されている。

 

 

左脳・右脳の利き脳はあるのか


左脳と右脳の使われかたなどどうでもいいじゃないか?ってことで、ふつうは問題ない。特に生きることや社会生活上で問題となることはない。ところが、意外かと思うかもしれないが、哲学の認識論上では極めて重大な問題となる。なぜなら、言語の扱いと概念イメージと言語の関係が変わってくるからだ。私は、私を基準にして認識上の原理論をつくる。もし利き脳システムが本当にあって、私がどちらかに偏っているとすれば原理論は普遍性をもたないことになってしまう。

インターネット上で、左脳と右脳、利き脳を検索して調べると、玉石混交で色々出てくる。利き脳があるという意見では、単になんちゃって心理学のような薄っぺらい記事が大多数で、まれに大学教授の論文がある。利き脳は無い、迷信だという記事のほうは、科学的検証ができていないという理由だけを「無い」の根拠にしているので、逆に非科学的かつ単純な論理の誤りである。科学的検証ができていないという点では、有る無いのどちらとも言えないとなる。

ということで私は、有る可能性もあり無い可能性もあるとする。有る場合に冒頭で述べた哲学理論上で問題が生じるため、有るという仮説論を避けて通れない。

まず、脳梗塞などで左脳に損傷を受けると右半身に麻痺などの症状が見られ、右脳への損傷は逆になる。これは医学上で証明されているから科学的根拠がある。言語が左脳中心で感性が右脳中心というのも上記の脳梗塞の事例で証明されている。しかしこれは、利き脳があるかどうかの根拠にはならない。一方で、手足に右利き左利きがあるのは事実だ。ただし、利き手にかんしては幼いころに親が右利きへ修正した可能性がある。

利き手から利き脳を判別するロジックは仮説上で可能だ。但し、利き脳とはどういう脳のはたらきのことをいうのかについてと手足との関連性については、おそらく論拠が希薄となるにちがいない。

ところで、インターネット上によくある、自分の両手を目の前で組んでみて左親指が上にくると右脳インプット派であり、右親指が上にくると左脳インプット派であるという仮説はどうだろうか。論文のなかでは統計数値として傾向が出ているという。しかし人体メカニズムの論拠については探すことができなかった。同様に、自分の両腕を組んでみて左腕が上になる場合と右腕が上になる場合、前者は右脳アウトプット派で、後者は左脳アウトプット派だという。これも指の場合と同様で、統計根拠はあるらしいが人体メカニズムの論拠は無い。そもそも指がインプットで腕がアウトプットという理由も、今のところネット上で探し出せていない。

私の場合、指も腕も両方とも左が上なので、インプットもアウトプットも利き脳が右脳ということになる。占いを読むようなつもりでネット記事を読んでいると、感覚だけで生きている人、らしい。まるで論理力がないように書かれているし、整理整頓ができない散らかしっぱなしの人らしい。もしそうなら哲学原理論なんて創ろうと思うわけない。苦行になるだろうから。ところが私にとっては超がつくほど楽しい仕事である。部屋の整理整頓はちゃんとしているほうだと思うしね。

他方、確かにそうかもしれないと思うこともある。例えば、本を読もうとする際に、活字を読もうとする意志のスイッチを切り替えないと一文字も意味が理解できない。ふつうに歩いていたり車を運転したりする際に、景色は自然に目に入ってくるが文字の広告があっても標識以外の意味は無視される。飲食店内や電車内で他人同士の話に聞き耳を立てることも目的化しなければできない。他人の話も音楽の歌詞も、自然に言語の意味が耳から入ってこない。目の前の相手が話している内容を聞くふりをして、相槌を打ちながら意味内容をまるまるスルーする得意技まである。

もし私の利き脳がインプットもアウトプットも右脳であり、しかもそれが顕著であれば、概念原理論を創る際に障害となる。なにしろ認識論については、自分の認識感覚を基準にロジックを組み立てていくのが基本だからだ。

左脳と右脳がある以上、どちらかの脳の使われかたに偏りがあっても不思議ではない。男女の脳の違いも含め、科学者による脳機能の研究結果や過程にかんしてはアンテナを高く立てておこう。

 

 

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