高きに昇る水


今日は1月8日。記念日です。
そう、いちかばちかでこの日を選んで法人を設立したのでした。
内省から入りたいので少し個人的な回想をつらつらと書かせてもらいますね。長くなります。

 

1990年ですので不動産バブルの真っ最中でした。バブル景気だからみんな良い思いをしたんだろうと、ご存知のない方はそう思われるかもしれませんが、証券、金融、不動産、建設関連の業種が良かっただけで、2003年頃から今も続くITバブルと同じようなものです。関連しない業種のかたがたにとっては、景況感はあれど実際の収入はそれまでとほとんど変わりなかったと思います。

私はと言えば、はい、不動産開発でバブルのど真ん中にいました。けれど設立時は徒手空拳(いつもそうですが)で、資本金50万円で設立した株式会社です(当時は8人発起人×5万=40万から可能でした)。その後1000万に増資しましたが。

一つの開発を決めるフィーが約5000万という流れで始めましたが、私のほうが遠慮して(後から考えるとこれで良かったんです)2000万とか1500万とか、でも皆さんバブルがはじけてもちゃんとお支払いくださいました。良いお取引先に恵まれたと思います。代表者である私への役員報酬をのぞけば利益率は90%以上で金銭的危険負担もほとんどないのですが、開発なので1年2年と時間がかかるんですね。それと、ゼネコンだとかヤクザだとか、住民対策だとか、役所の許認可対策だとか、銀行への事業計画書提出と融資の折衝だとか、まあ、むちゃくちゃ脂っぽい世界で、下手したら冗談ではなくさらわれて沈められるか埋められるかです。そういう中で「押し出し」を利かせて誰にへつらうことなく一匹狼で綱渡りしていたわけです。(今考えるとずいぶん危険なこともしたなあと思います)

10代~20代前半の人生の中でヤクザには免疫があったので、そちら方面は怖くないというのはありました。不動産開発で大きな金額の土木建設が必ずからみます。ゼネコンでもデベロッパーでもヤクザが絡んでいない会社なんて一つもないんです。でも逆に、企画を泥棒したり、口約束を裏切ったり、そういうことは一切なかった。事業を進めてゆくなかでゼネコンとの交渉や建築現場の工程会議で大喧嘩の口論になっても一時的なもので、遠慮なく仕事することができていました。土木工事、建築工事、設備工事など、血気盛んな野郎どもがたくさんいました。ゼネコンの役員と言えば、死んだ魚のような焦点の定まらない光を失った目をした人が多く、一体何人行方不明にしてきたんだろうかとぞっとするような生気のない人ばかり。そうした全体を取り仕切る立場なわけです。

私は住民同意や役所許認可でヤクザや同和など一切使わなかったので、住民説明会の住民側の席にヤクザが数人座っていて睨みをきかせてくるなどありましたが、そんなことで腰が引けるようではどうしようもない。まさに向こうの狙いどおりになってくる。

ここのブログだけでしか私を知らない人は、私のことをインテリの道の人と思われているかもしれませんが、それは誤解です。今はね、そうなのかもしれませんが。でも少年ジャンプも読んでますし!

 

そんななか、さて、私は何のために仕事をしたのか、何のために当時を生きたのか。何のために会社を興したか。

お金儲けのためでした。

お金儲けが一番で最優先。

お金儲けのために馬鹿みたいに危険な仕事をしていたのです。あれで死んでいたら本当に大馬鹿者で、子どもたちに申し訳なかったと思います。(生きていても申し訳ない勝手な父なのですが)

 

で、「お前はそれで、誇りのもてる仕事の実績を残せたのか」と自問自答すれば、恥入りながらNo!と答えるしかないのです。後付けの正当化理由をくっつけて、別の何かのためだったとするのは自己欺瞞であり、いい経験をしたじゃないかと結果論で正当化するのは自己逃避です。

お金を稼ぐことは良いと思うんですよ、それはそれで。
でもたぶん、二番以下の優先順位にしなくちゃいけないものだと今は思います。もし一番にしなくちゃいけないのなら餓死でのたれ死にしたほうがマシだと、2008年のリーマンショック後にそういう考えかたになりました。経済に絶望したというか、汚れた俗物的なものとして経済をとらえるようになった。

あのときから8年たって、社会的活動の総決算、集大成と位置付けた新規事業を始めました。2017年が本格的なスタートです。動機的には、まだそこだけですが満足できるものになっています。お金になるかどうかはさっぱりわからないけれど、胸を張って、魂込めて、頭脳よりも精神を使って打ち込める活動の場に自分を放り込めたことが大きいです。

志を持てば不思議と、(ごく少数ですが)同じ気概をもって一緒にやろうという仲間ができます。利益を出していかねば続けることができませんけれど、古い日本人は貴重な言葉を残していますよね、「お金はあとからついてくる」と。そのとおりだと信じて。

恩返ししなくちゃならない人もたくさんいますし、もう年齢的に頭と体のことを考えても無理できるのはあと10年くらいだろと思うので、捨て身の覚悟で頑張ります。

 

さんざん脂っぽいこと、暑苦しいことを書いておきながら、今日のテーマは「水」です。長ったらしい前段ですみません。(でも私には書く必要があった)

 

近代~現代では特に、人は目的的に生きるようになりました。

何を目指しているか、子どもに将来の夢をきくとき、大人は職種を答えることが当然だと期待し、子どもも大人の期待を裏切らないように良い子の答えとして職種(仕事)を答える社会です。

それで夢をかなえられる人はごく僅かかもしれません。また、もし夢がかなったとして、その後はどうなるのでしょうか。

 

ハンナ・アーレントから言葉を借りてきましょう。

 

新しい始まりとはつねに、無限に非蓋然的な、とてもありそうにないことなのだ。だからそれは、生き生きとした経験においてわれわれがそれに出会うとき ――この生の経験は、プロセスとして進行するという特徴をあらかじめそなえており、その進行を中断するのが、まさに新しい始まりなのだが――、奇蹟であるかのような印象をつねにわれわれに与える。(みすず書房版 ハンナ・アーレント著『活動的生』)

 

上記の言説の前に、地球上に有機的生命が発生した奇蹟、それが人類の発生にまで及んだ奇蹟を「とてもありそうにないこと」だったとしか思えないと述べています。偶然が偶然に重なって起こっている、宇宙の始まりの時点では把握可能な蓋然性(※がいぜんせい・・・可能性とほぼ同義ととらえてください)とは矛盾すると。

新しい始まりとの出会いは、とんでもないところ、予想不可能なところに起きる。

続けて引用します。

 

新しい始まりという意味での行為の能力が人間に与えられていること、この事実が意味しうるのはそれゆえ、次のことにほかならない。

つまり、新しい始まりは、いかなる予測可能性や算定可能性をも逃れるということ、個々のそういった事例においては、非蓋然性的なことがそれ自体、なお一定の蓋然性をもつということ、そして、「合理的」には、すなわち算定可能なものという意味では、まったく予期されえないことが、それでもやはり期待されてよいのだということ、これである。(同)

 

彼女自身が己の波乱万丈の人生で、これを経験し体現しているのです。だから魂込めて書いている、血で書いている、その言葉が胸を打つ。目的的に生きるのはそれはそれでけっこうなことですが、その目的にのみ心を奪われ固くなってしまうと、予測できなかった新しい始まりのチャンスを見逃してしまうかもしれません。目的に向かって歩んでいる際、未来に予測できない新しい始まり(それは「横道」と呼ばれるものかもしれませんが)に初めから期待してよいということを力強く述べています。

自分自身が、自分が予想しえなかったような人間になれる。

1990年の私には想像もつかない、ありえない私が2017年のここにいるわけです。良い悪いの是非はともかく。

 

固定化しない、無目的的、フレキシブル。
「水」はその象徴だと思います。

障害物を自在に避けながら自由に低地へ向かう水の進路を逆方向に喩えれば、予想し得なかった高いところへ、更に高いところへと自然に昇っていくわけです。

 

設立記念日の今日、1月8日の思いのまとめをば。

横道やわき道に新しい始まりが、つまり当初の目的よりももっと高い山へ昇れる入口があることを肝に銘じ、水のようにそのチャンスを逃さずすっと進路変更できるよう、肩の力を抜き柔らかい精神で歩んでゆくことを、今後の信条のひとつにしようと思う。

 

 

地球論から「公」と「私」を連想する


地球は太陽の周囲を公転している。その太陽を中心とした太陽系は銀河系(天の川銀河)の内部で公転している。

私たち人類は地球を構成する生物の一種として、地球の肌にはりつき生死を循環させている皮膚細胞の「微小な存在のごく一部」のようなもの。73億人の人類種が消えても地球は何も困らない。ジェームズ・ラブロックが『ガイア理論』で「地球は生きている」とぶちあげた時、科学者たちからトンデモ論として扱われた。それが今では地球システム論というふうに名を変え定論となった。

ラブロックは、「人類という疫病」というタイトルで次のように述べている。

 

私たちヒトという種は、完全に自立した自由な個体として生きているのでもなく、ミツバチにように完璧に統合された社会的動物でもない。私たち人間は部族として生活しているのだが、残念なことにその部族としてのふるまいは個人の道徳水準にはるか及ばないのが通常である。私たち個々人がいくら知性的であっても、社会的集団としては無作法で無知なのだ。人間同士が仲よく暮らすこともままならず、地球とも調和して生きていけないのは、このアンバランスのゆえだと私は思う。実際行動を起こす力のなさと、その行動の方針を定める知性の薄弱さ、このギャップが大きいのである。(ガイアブックス版 ジェームズ・ラブロック著『ガイア 地球は生きている』)

 

73億人にまで急増した人類は、地球にとって癌細胞なのだろうか。
そんなたいそうなものでなく、軽度な皮膚炎の原因程度ではなかろうか。

私たち一人の人間の体は37兆とも60兆とも言われる膨大な数の細胞でつくられている。この細胞たちは、私たちの体を常に「定型」にするようにバランスされ、例えば体のどこかが変形したり傷をおったときには、元の形に戻そうと勝手にはたらき始める。

地球を「公」、人類を「私」としてとらえる感性は、人を「公」、全身細胞を「私」としてとらえる感性に重なる。ここにハンナ・アーレントをマッチングさせれば、会社を「公」、労働者を「私」とする仕組みに連想が及ぶ。また、カール・グスタフ・ユングをマッチングさせれば、全体人格を「公」、多人格性のそれぞれを「私」とすることに連想が及ぶ。

こうした観点から世界をとらえる感性は、「公」と「私」の関係性、「私」と「私」の関係性において、哲学の「なぜ存在しているのか」という存在論の原理に、ある示唆を与えてくれる。(後日、論考がまとまったら書きます。今はイメージで思考しているだけで言語化できない)

そこには「人類になぜ希望が必要なのか」というテーマ、エルンスト・ブロッホ『希望の原理』の哲学論に通底するものがある。

私が今日目を通した本は、ラブロック、アーレント、ブロッホ、少年ジャンプ、iphoneの説明書の五冊。それぞれが別の「私」に取り込まれ、それらが結びついて「公」の一人間としての人格を構成している、と言える。このとき、興味深いのは「私」と「私」の関係性である。

 

 

わが道を独り行く


私がここで「希望」について書いているのは光の人格と言えると思うが、陽極には陰極、長所と短所が同じ位置に同居しているように、光には影がある。希望を力強く打ち出す自分の源泉には「どうせ失う命だから」というニヒリズムが基盤としてある。

このニヒリズムが逆転作用すると影の人格が発動し、「どうせ失う命だから、もうどうでもいいじゃないか」と投げやりとなって、光として急上昇した自分は一直線真っ逆さまに深淵の暗黒へ墜落していくのである。そのことが最近自覚できるようになってきた。

それゆえ、書いてアウトプットすることで、或いは誰かに熱く語ることで、影に落ちない自動調節を無意識が行っているようだ。影は睡眠中にもわっと立ち上がっているのかもしれない。目覚めは陰のニヒリズムが心に漂っていることが多い。

毎日、なんらかの刺激を自分に与え、陽のニヒリズムのVolumeを上げていこう。

 

エルンスト・ブロッホ(哲学者 1885-1977) の『希望の原理』という大著を読み始めている。彼は「希望を学ぶ」ことが大切だという。以下、引用する。

希望がやる仕事はあきらめることがない。希望は、挫折にではなく、成功にほれ込んでいるのである。希望は、恐怖よりも上位にあって、恐怖のように受け身でもなければ、ましてや虚無に閉じ込められることもない。希望という情動は自分の外に出ていって、人間を、せばめるどころか、広々とひろげていき、内側で人間を目指す方向に向けさせるものが何なのか、外側で人間と同盟してくれるものが何であるのかについて知ろうとして、飽くことがない。(白水社版 エルンスト・ブロッホ著『希望の原理』)

 

ニヒリズムとは虚無感のことであり、その虚無に閉じ込められるとき「もうどうでもいいじゃないか」という投げやりな心が発動する。彼が述べているとおり、希望は受け身ではなく自ら積極的に生成するものであり、未来の可能性(成功)にほれ込み、予想されるリスク(失敗)に対し「それでもよし」という覚悟のもと、勇気によって実践される。その実践は希望がある限りあきらめることはない。

内省的に希望を考えたときには、いったい希望とは何であるのか知的欲求が首をもたげ哲学になってくる。「外側で人間と同盟してくれるものが何であるのか」という言説についてはもう少し考えてみることにする。

彼は以下のように続ける。

この情動の仕事は、生成するもの ― 人間自身もそれに属している ー のなかにとびこんで働く人間を求めている。

存在するもの、見るもあわれな型にはまった、お定まりの、不透明な、存在するもののなかにただ受け身に投げ込まれているだけの、犬のような生活には、この仕事はとても耐えられない。生の不安と恐怖の策動に抗するこの仕事は、それらの元凶、大部分ははっきりそれと示すことのできる元凶どもに抵抗する仕事であり、この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする。それはたしかに見つかるのだから。(同)

 

まったく同感でブロッホとはウマが合いそうだ。(もう亡くなっているけど)

これを読んで、「そうは言っても」とか、「なにを暑苦しいことを」とか、もしかするとそのような日本人が今は多いのではないかとも思いますが、同じ耳をもつ人もいるのではないかと期待しています。

元凶、元凶どもは自分の心の中にある別のキャラクターなのだと思います。外の元凶など大したものではない。

誰になんと言われようと、白い目で見られようと、そんなものはまったく無関係でありまして、死んでゆくのはひとりきり、自分が何のために生きたのかという責任を、誰もとってはくれません。

 

どうせ失う命なのだから、燃え尽きるまで大いに燃やす。

 

やりたい仕事で2倍稼げる仕組みを社会に


今日は新しく作った希望モードです。

私たちの人生の中で「仕事」や「労働」の占める価値割合はかなり高いと思います。

「仕事」や「労働」はお金を稼ぐ手段ですが、お金もまた手段にほかなりません。そもそも手段であるお金が目的となってしまっていないか、というふうに自問自答してみたことはありますか。お金の収入が安定していることを人間は求め、それは労働が安定して供給されていること、つまり安定企業の正社員で終身雇用されていることを望んだのが20世紀でした。

ところが現代社会と言えば終身雇用制が崩壊し、年功主義から能力主義へと完全にシフトされ、安定企業と言われ続けてきた大手も、SONYや東芝の例を出すまでもなく経営が傾いてゆく企業が増え続けています。

それでも「正社員」雇用の促進が政府の方針らしいのですが、私はピントがずれていると思っています。正社員はむしろハイリスクで、リスクヘッジができていない職業的立場の筆頭のように見えています。

安定収入がある、健康保険と年金を半分会社に払ってもらえる、退職金があるなどの利点と引き換えにわが身の自由を差し出している、はっきり言わせてもらいますが会社(公務員ならば国や地方自治体)の奴隷ですよ。労働関連法をよく読めば対等でないことは明白です。

このテーマについてはまた改めて書こうかと思いますが、労働だとか、雇用だとか、正社員だとか、もうそういった概念自体が古くさく、死にかけている老人(失礼!)のように感じています。

じゃあお金を稼ぐにはどうしたら良いか。

もちろんファウンダーとして創業する手はありますが、そう無理せずとも「業務受託」があります。それも常に一個人が複数の業務受託契約を結んでいることによってリスクヘッジできていて、しかもやりたいことを、自由な時間を使って仕事をし、それで今より2倍以上の収入になっている、という状態は十分に可能なのです。そういう仕組みを私は造っていきたい、そのために新規事業をスタートアップしました。がんがんやっていくつもりです。

 

日本人のしなやかな覚悟


今日は新しく作った「桜の人モード」で書きます。

昨日の記事で私は、捨て身の覚悟でと書きました。大袈裟に言えば死の覚悟ですが、日本に連綿と受け継がれてきた文化には、「思いきる覚悟」「美しく散る覚悟」「いさぎよい覚悟」「あきらめの覚悟」などいろいろとあって、一つの真理として「覚悟のすがた」を限定せず、しなやかに使いわけてきたのが日本人だと思うんですね。

『葉隠』、『平家物語』、本居宣長の“もののあはれ論”などから引いてくればきりがないほどさまざまな覚悟のすがたがある。この覚悟を体現している人は現代日本にもたくさんいると思うのですが、なかなか目立つところには出てきません。

とても大切な気構えだと思うんですよねえ。

 

以下、高見順(詩人 1907-1965) の『帰る旅』から引用します。

 

この旅は自然に帰る旅である

帰るところのある旅だから楽しくなくてはならないのだ

もうじき土に戻れるのだ

 

この詩は彼が癌を患い余命いくばくもないなかで書かれたものです。
ここには見事に「あきらめの覚悟」がある。つづきにこうあります。

 

大地に帰る死を悲しんではいけない

肉体とともに精神も わが家に帰れるのである

ともすれば悲しみがちだった精神も

おだやかに地下で眠れるのである

 

宗教的概念の「天国」や「極楽浄土」ではなく、大地に帰ると言っています。大地がわが家という感覚がいいですよねえ。意味として客観的に、「土に還る」という感覚に置き換えられないこともないですが、詩的には主観的に、私は「帰る」と、また「戻る」ということでしょう。そう書かれているからこそ心に響いてくるのだと思います。

物質世界の科学的感覚が現代文化の主流になっていますが、日本人のこうした「自然から生まれてきて自然へとまた帰る」という思想、おだやかに地下で眠れる精神という表現は、なんとなく私たちの心に、『おだやかな覚悟』を芽生えさせてくれるような気がします。

 

年初新春に桜花の心。

 

 

2017年 希望の海へ


ここと同じくして元旦にアップした私のビジネスサイトにも書いたのですが、今年は特に「何のために生きたのか」にこだわってみようと思います。

「何のために生きるのか」ではなく、「生きたのか」と捉えることに意義がある。
いつか私は死ぬわけですが、そのときにはおそらく、「おまえは何のために生きたんだ?」と自問自答するような気がします。

社会の理不尽さに手も足も出ず見て見ぬふりをしてあきらめモードに入り、世は無常だと悟った気分となって自己正当化に逃げるようなことだけはしたくない。戦わずして守りに入るような自分を死ぬ間際の未来の自分は絶対に許さない。私に残された時間はそれほど長くない。

2017年、陸地が全く見えない広大な海へ、海図もなく計画もないまま、捨て身の覚悟で変革に挑戦してゆきます。

行く先には必ず感動があるに決まってる。

 

 

正月三が日=平日3日間


年末年始、世間に背を向けて仕事(っぽいこと)をずーっとしています。

2005年からニーチェクラブっていうローカルサイトでずっとコラムを書いていて、2013年からは天籟の風 ameblo 版(バックアップしてる記事を数えたら1200もあったよ)を書いてきて、2017年からはここ(たぶんネット上では終の棲家となる場所)でスタートしたのですが、リアルの人たちにももうかなりオープンになっていってるので、どう書いていいのやらけっこう困惑気味なのですが。

お気づきになられたからもいるかとは思うんですけど、今回の新しい取り組みとしては、カテゴリーを自分の中の多人格で分類しようとしていて、この投稿は「風の人」なわけです。自由で爽やかな人~です!

私たちって、対する人によって、シチュエーションによって、無意識にキャラクターを造ってません?同じようでいて、友だちA君と2人の対話、友だちBさんと2人の対話、A君Bさん交えた3人での会話、大勢の中にA君Bさんがいて彼らに見られているとしても違うキャラクターが立ち上がっていたり。してませんか?

 

インターネットでもそうで、ニーチェクラブで書いていた人とアメブロで書いていた人は別人ではないのかと自分でも思うほどで、リアルからブログに招待した人たちもあまりのギャップに「エーー??」と思われた人が多かったみたいです。

多人格を統合してひとりを演出するのはなぜかというと、「安全な人」というふうに見られたいからかもしれない。だって外を歩いていても私たちはすれ違ったりする知らない人たちに「安全な人だよ」アピールをしているんじゃないですかねー?どうなんでしょ。

で、私はここでも「安全な人」をとりあえずアピールしたいわけです。

でも一つのキャラクターに統合し安全な人として表現しつづけると、自分の中にいる天邪鬼的キャラクターが自己破壊行動を起こすんですよ。彼は何をするかというと、「なにしらっちゃけて書いてんだよ。壊せ壊せ!ブログなんてやめてまえ~ケケケ」という悪魔のささやきをしてくるんですね。

なので今回の試みとしては、風の人、炎の人、山の人……というふうに自分の偏った多人格を閉じ込めず、自然に表現してみようとカテゴライズしてみたんです。完全に風の人っていうふうにはならなくて混じってくるのは仕方ないんですが。

うまくいくんだろうか?

ということで何を書いてるんだか伝わってるんだかわからなくなってきましたが、とりあえずカテゴライズしてみたそれぞれの人格について取扱説明書を書いておきます。

 

2017 START


 

新年あけましておめでとうございますー!

新しいブログスタートです。

よろしくお願いしまーーーーーす!

 

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