「いのち」の縁、同じ血を通ずる士


 

黄昏人モード

29年前、最後の昭和である63年に出会い、細く長くですがずっと心で繋がれてきた(私にとってですが)という方がいらっしゃいまして、昨日はその方のオフィスにお邪魔し1時間半ほど話をしてまいりました。2月1日に設立した法人の趣旨を説明し、意見を拝聴したかったことが主目的でしたが。

私にとって「師」なのかどうかはわかりません。ただ知り合った頃も今も変わらず「士」であり、「ピン」で生きている方であります。70代半ばで社会の第一線でご活躍されているかたなのですが、近年は体のお加減があまりよろしくないようで、「そろそろ」という言葉を話の最後に挟んでいらっしゃいました。

9月にお会いした際に、その方が著した一冊の書を頂戴したのですが、昨日はその書を持参し、なにかお言葉をいただきたいと願いましたところ、ご本人の即興の造語だと思いますが四文字熟語の言葉を自筆で書いてくださいました。いつかこの言葉の本当の意味が心にできたときに、ここに書きたいと思います。

書の名は、『人生を豊かにする「歎異抄」』。

タイトルのとおり、その方は親鸞に気づきを得られています。熱心な信仰徒なのかどうかはわかりません。そういう話は出ませんので。その書のまえがきには、次のように述べられています。

本書は宗教学的な立場を離れ、むしろ四十年に近い弁護士生活を通して多くの人々と接した私の経験をもとに『歎異抄』を理解しようとするものです。

親鸞の言説を引用する部分の理解に関しては、「超意訳」だと述べられており、著者ご本人の人生観、人生哲学、ご自身の思想を表している部分が際立ち、その部分にこそ宝石を散りばめた価値があるように私には感じられます。

一部引用します。

 

自己と他者との関係は、人格(パーソナリティ)同士の対話です。対話者間において相手から発せられる言葉は、その相手の全人格から発せられる言葉として受けとっているのです。

例えば、哲学であれ、社会思想であれ、その学者の著作を読む時にその著作者と一度も会ったことがなくても、その著作者の思想大系を読みとることができるものです。だから、その著作に記載されていない事柄であったとしても、その著作者だったらどのようにその問題を考えるのかを理解します。いわゆる行間を読むということです。

このようにして一度も会ったことのない著作者との間にも対話が成立し、連帯感を共有することができるのです。

人間同士の連帯感をこのように感じることができるのであれば、その相手が現在生きていようがすでに死亡していようが同様に対話をすることが可能であると考えます。この意味で、死者との対話も可能ということが言えるのです。

すなわち、他者との対話は、「いのち」の存在を根源とする全人格的な連帯感のうえに成り立つと考えるからです。

(PHP文庫 髙城俊郎著『人生を豊かにする「歎異抄」』)

 

上記文章の前後では「いのち」について述べられているのですが、そのまままるごと私の人生観と同じで、柔らかく潤いのある内容でありながらも、凛とし毅然とした文体ですっきりと書かれています。自分の心をわかりやすく説明していただいてる気分になります。

私のこのブログも、恥ずかしげもなく自分をさらけだし、全人格で書いているつもりですが、連帯感を共有していただけるかたも、多少はいらっしゃるようで大変ありがたいことです。

一時間半ほどの歓談の内容には、世間の浮薄な俗事にかんする個人的見解の意見交換なども含まれましたが、そうした「頭」で理解し考える内容の価値よりも、互いの「いのち」を分かり合うといいますか、そこに生まれている、血が通じ合った「いのち」の連帯感がすべてです。その連帯感には「言語的意味」はまったくありません。

年齢も離れていますし、私はいつも「髙城先生」と慕って敬意を払っているのですが、髙城先生も常に私に対して敬語をつかって敬意を払ってくださり、オフィスの出口まで見送ってくださります。

その別れしなに昨日は、「また伺います」というこちらの言葉に、「お元気で」という言葉を返されました。一気に涙があふれました。

 

 

 

やらなくちゃね。

 

 

 

 

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