信頼を考える


先週からコピーライティングの本を4冊ほど読み漁っています。プラス「仕掛学」の本も面白そうだったので読んでいる最中なのですが…。

広告業界のコピーライトの世界は思ったよりも奥が深くて、これは心理学の応用、しかも深層心理学(無意識)にまで食い込んできています。また、「仕掛学」は間接的に無意識を利用するという面で似ている分野です。

単純に言葉のテクニックではないかなどと考えていました。ところが、コピー(言葉)よりも重要なのは「信頼」だということが書かれていて脳天ぐさりです。ふつうは「商品価値」を最もPRしたくなりますが、これは三番目で、四番目が「価格」。で、一番は「信頼」。二番は「好奇心をくすぐって持続させること」、そのように理解できるようになりました。

重ねて言いますが、奥が深い。

信頼。これはマズローの五段階欲求の第二段階にある、「安全」を思い起こさせます。安全な会社であること、信頼できる経営者であること。お金をだまし取られないこと、商品が安全であること。アフターフォローが安心できること。そうしたところを無意識のうちに探している。自分に当てはめても確かにそうでした。

 

前記事の最後のほうで「信頼」について少し書きました。そして功利主義や打算、ソロバン勘定は駄目だと大塩中斎が言っている、安岡先生も言っていると書きました。

そうしてみると、「信頼」を目標に置いて目的的に思考し行動することについても、厳密にいえば功利主義ではないかと考えるに至りました。ましてキャッチコピーに「信頼できる会社です」だとか「信頼してください」などと謳うのはナンセンスで逆効果ですね。

信頼を築こうとして目的的に考え、例えばその一つの手段として「約束を守っていこう」とした場合に、功利的だから駄目なのだろうかと考えてしまうわけです。

ではその反対に、「約束を守ろう」と決めて、それがずっと続けば信頼を得られるかもしれないと考える場合はどうか。これもなんとなく功利的に思えてくる。

功利的ではないということはどういうことか。約束を守ろうとも思わず、信頼を得ようとも思わず、内発的に無意識のうちに口が動き身体が動いている、その結果なぜだかわからないが信頼されている、いや、信頼されているとも考えない状態なのかもしれません。

しかし、常人でこんなことは可能なのだろうかとも考えるわけです。

これはもう悟りきった仙人レベルなのではないかと。

 

たしかに純粋な心から内発的に出てくる言動や行動は美しいです。すばらしいですよね。でも、目的的に功利として考えることがそれほど悪いことなのかとも思います。人類は目的的に考えることで文明を進化させてきた側面が大きいとも思います。

自分の利益だけを考える下衆なソロバン勘定は良いものではありませんが、事業には数字の事業計画が付きまといますし、というかそれがないと駄目ですし。目標とする結果を決めて、そのためにはどうするかを考える功利主義も半分あって良いのではないかと思うようになりました。目標を貫徹しようとするとき、多くの他人が必ず絡みます。ときには打算も必要でしょう。

 

いずれにしても「信頼」です。信頼される人になること、信頼できる社会や法人を作ること、これだと思います。

そのために、誠実さ、勇気と志、義理と人情、愛情、情操、矜恃、使命感、正義感、継続力や忍耐力など、そうした資質や能力、パーソナリティーが求められてくるのでしょう。

まだ整理がついていないので、引き続き考えてまいります。

 

 

※前記事で、「なぜなら欧米では、「自分の内」のことは教会(宗教)の教条主義によって強制的に造られるからです。アラブの世界でも同様ですね。」と書きましたが、宗教のドグマによらず、無信仰者として「立派な人間とはどうあるべきか」を子どもに教える親もいるのかなと考え直しましたので、訂正したいと思います。日本でもドグマチックに教える宗教もありますし、ステレオタイプでレッテルを貼ったのは私の至らなさであります。(後日修整しておきます)

 

 

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