「忖度」について


 

谷の人モード

今年の流行語大賞に選ばれそうな勢いの「忖度」ですが、「そんたく」という言葉はそれほど多くは使われてこなかったのではないかと思います。

日常会話では使いませんよね。

この「忖度」ですが、マスメディアや著名人が使用している語感がなんとなくイメージにそぐわないのですが、これは私だけでしょうか?

語感イメージとしては、君主や天皇などの高い地位にいる人に対して、尊敬の念を含みながら「“我が君”のお気持ちを忖度して、」というふうに、結構へりくだった使用表現が思い浮かぶのです。会社員であれば自分の会社の社長や贔屓にしている役員くらいには使うとしても、「課長の意を忖度して」という使われ方は変だと思いますし、某大阪府知事の「国民の心を忖度して」なんて言われると、クエッションマークが頭の中をスキップしている状態になったものでした。例えば、「生徒の気持ちを忖度して」は、感覚的におかしいと思いませんか?

日常的には「察する」だとか「慮(おもんぱか)る」「汲み取る」「考慮する」「推察する」「拝察する」「斟酌する」などを使い分けるのではないかと考えるわけですが。

今や「忖度」の大バーゲンセールになってしまっている感がぬぐえません。

でもまあ、これは私のもつ語感イメージなので、他人さまや世間さまは違うのかもしれませんね。私の感覚のほうがおかしいことは大いに有り得ます。

 

さて、この「忖度」ですが、ま、「推察」でも「斟酌」でも良いのですが、日本人ってわりと「相手の心中を察しなさいよ」という価値を社会の側から押しつけられてきたのではないかと思うのです。

そうしたことを国民的に考える良い機会が生まれたと捉えれば、歓迎すべき出来事だと言えましょう。

「察する」ことについて、個人的関係の1対1においては良い作用が生まれることが多いと認めます。特に喜怒哀楽、苦悩などの情緒面で人間関係作りには欠かせないものでしょう。けれど、意を汲むというのは、或いは「察しろ」とばかりに意を汲み取らせようとする人には、「めんどくせー」と思いますし、「おとなってやーね!」(苦笑)となってしまいます、私の場合は。

 

組織の場合、或いは政治家と秘書の場合もそうかと思いますが、意を汲み取らせようと、上の立場の人間がにおわせるのはとてもいやらしい。無言で「何かあったらお前が責任取るんだぞ」という圧力と本人の責任回避。

私にとってはどちらの立場も絶対に嫌です。断じてしません。否定します。

 

思うんですが・・・。

利害関係が絡んでくる場合は特に、もうね、今の時代、これからの時代、意を汲む「忖度」も「推察」もやめませんか?

「察しろよ」とにおわせてくるような人は卑劣だと位置づけませんか?

なんかその周辺には「臆病さ」が漂っている感じがあるんですよねえ。傷つきたくない、みたいな。従属関係にごちて酔い痴れているような気持ち悪さも。

「阿吽の呼吸」を美化し、それが出来ることを優れているとするのではなく、もっとオープンで明朗快活なコミュニケーションを、これからの日本社会は目指した方が良いのではないかと考えています。海外の人たちとの異文化コミュニケーションは自然とそうなるでしょうし。

そのなかで阿吽の呼吸が生まれれば、驚き、嬉しい気分になるのではないかとも。

以上が私の個人的見解であり主張です。

 

メディアにおいては、折角の良い題材があるのですから、「忖度」そのものの是非や意義、デメリットにおいて国民的議論になるよう問題提起してほしいところです。