言葉を使わないで“感じ”で考えてるんです


今日は、というよりいつもそうですけど、真面目な話題ですね。倫理とか道徳とかについてを原理的に考察中で、その備忘録でもあるんですが。

その前に、私は言語を使用しないで考えることが多いんですよ。もちろん言語を使用して考えることもあります。で、言語を使用しないで考えるってどういうこと?って感じでよくわからない人がけっこういて、この説明を言語でするってのもなんか変って感じなんですが。

言語を“感じ”にいったん自動変換して、“感じ”で考えてるんです。考えてそれを他者に伝えたりこうしてここに書いたりするときに“感じ”を言語に再変換しているわけですね。だから私の平易な文章やリアル会話では、「こんな感じ」が多い、かもしれない(笑)だって言語表現は(私にとって)相当めんどくさいことで、言語に直すと“感じ”が劣化してしまうし、誤解を与え、その誤解を解くのにまた言語でひと苦労する。“こんな感じ”という表現だと幅と深さができるから便利なんですね。

そんな感じなので(笑)、でも、“感じ”で考えるってどんな感じ?ってことを、いま考察中の倫理と道徳、そして情意を使って表してみます。

以下は、この数日間で深掘りしたそれぞれの“感じ”です。

〇「倫理」の“感じ”

道徳のアレンジ、理性的、社会的判断、個人的判断、相互の関係、柔軟、複雑、時代や環境によって変化、相手と社会と自分を考えて妥協する、道徳の原理を考える倫理学、一方通行ではない、思考する技術が必要、民事、生命倫理、社会倫理、これらの複合化イメージ。

〇「道徳」の“感じ”

情意のアレンジ、モラル、子どもに教える、個人の規範、固定的、命令的、相手を選ばない、どんな相手にも、人工知能でも可能、宗教教義、前提に社会善がある、画一的、正しい、義務、すべき、習俗、因襲、道徳の一部の悪は法で裁く、これらの複合化イメージ。

〇「情意」の“感じ”

心のままに、まごころ、純粋な思いやり、思考しない、人情、仁、無意識的、本音、社会的でない、おのずから、内発的、理屈じゃない、清きこころ、未熟または老熟の両極致、純真、純愛、言葉にならない、心意気、至情、至誠、直きこころ、これらの複合化イメージ。

こんな“感じ”で数学で言えば変数のまま数字にしないで、他のさまざまな変数を組み合わせて連立方程式を組んで法則や構造、原理を考える、ってのが私の主な思考スタイルなんですね。そもそも言語の発明はもともとの広大で複雑なイメージを言語の意味という狭い範囲に限定し単純化して伝えるためのもので、「初めに言語ありき」ではなく「初めにイメージありき」だというのが私の原理感覚です。

倫理、道徳、情意(この言葉を選択していますが他の言葉でもOK)、これら言語の本質は「倫理とは何か」にはなく、「倫理というイメージ」を使ってほかのことを考える、連立方程式を考える、そのために存在しているのであって、なので「自分のイメージで“感じ”という固定化されない定義」でよい、他者と違ってもぜんぜんよい、というかそうあるべきだとさえ思う。ただし他者とコミュニケーションをとるときには概念をなるべく共有しないとならないんですが。まあそれも無意識内で自然に調整していると思います。

というわけで、倫理その他について考察中の現段階では、もともと人間は情意があってそれを道徳へと発展させた。しかし道徳だけでは不十分で倫理へと発展させた。

そして倫理について十分に理解を深めたあとは、その倫理が、無意識の情意としておのずとあらわれることによって、他者もおのずとまごころでそれを受け止める。それでこそ人間どうしというものではないかと、こんなふうに今考えているわけです。

情意を言語化して教えるようになると道徳化が始まってしまう。もちろん子どもにはその順序が必要かもしれませんね。情意、守(道徳)、破(倫理)、離(アップデートされた情意)のようなイメージで。

 

今日のコラム内容は、“感じ”や思考感覚を共有できない人の方が圧倒的に多いでしょう。何言ってるかわかんないかも。共感してくれる人は僅かにいる。私の経験上。ですので、もしいつか、ああなんか昔、あんなこと言っていた人がいたなあ~って思いだしてもらえることがあれば僥倖と思います。

 

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