自由な思考への哲学的な旅


7年ほど前にリベラリズムについての論考を書いたことがある。「リベラリズム考(1)―多義性」から連続11回。今回は「思考」という違った角度から「自由」について少し掘り下げてみたい。哲学的思考の旅を楽しもう。

リベラルという言葉の第一イメージには「自由」がある。しかし言葉の概念イメージは、個々によって異なる。リベラリズムは多義的であり「自由」も多義的だ。前者にはイズムが付いているので理念的であり、その理念を善しとする思想である。一方で「自由」は理念でも思想でもなく、形容表現である。

形容表現を本質とする「自由」概念については、私は、まだ哲学的に取り組むことをしていない。今日のタイトルは「自由な思考への哲学的な旅」だが、本来は「自由」概念を明らかに、否、ある程度は「私は定義として自由という言葉をこのように使う」ということを先に提示すべきだろう。他者に文意を伝えるためには。今回はそれを飛ばし、自由な思考について自己の探究の一部として考えてみたいと思う。

というのも、私は本当に自由な思考をしているのかという疑問を強くもったからだ。そこには根本的なテーマである自由意志がある。これは一つ前の断想で「偶然性と自由意志」について書いた続きでもある。ただし今回は思いつくまま、エッセイのごとく徒然に綴ってみたい。

 


日本に暮らす私たちには、自由と民主主義の価値観に基づいてさまざまな「自由権」が憲法の基本的人権として保障されている。表現の自由、言論の自由、移動の自由、判断の自由などがそれである。もちろんここには思考の自由も含まれている。良い国に、良い時代に生まれたことに感謝しよう。

では、思考する材料はどこにあるのだろうか。外部世界の情報の真偽を判断し、真実を取り込み虚偽を捨てる。しかし巧妙に情報を操作され、虚偽情報を真実としてインプットしてしまうリスクについては認識しておくべきだろう。特に「物語化」された情報の真偽判断には注意すべきであるし、自分で情報を組み合わせて虚偽の物語を創作してしまう危険性もある。

これらも自由だと言えばそれらしいが、本当は不自由に強制されているかもしれず、思い込みによって頑迷に思考の自由を閉じてしまっている状態かもしれない。無反省であってはならない。

ところで、私たちが真偽判断に使う自身の機能には、頭脳と心、身体的感覚、第六感などがある。それらは身体内にある。外部情報についても身体内に入力される。記憶や価値観、感情をもとにして、私たちの内面である観念世界にそれを再創造する。この創造には想像力がたぶんに含まれる。

そのように考えると、ニーチェが述べていたように、私たちの内的世界には事実はなく、解釈と考察、想像によって創造された観念世界があるだけだ。外部世界に観点を転じればカントのいう「もの自体」を措定することも可能だが、今回はそこに立ち入らない。私の観念世界には実体験を基にした「私の人生の物語」がある。任意の誰かの観念世界には「その人の人生の物語」がある。

「人生の物語」が創造される基となる実体験は、意識上で思い出せないことを含め、記憶にその全体が存在する。無数の実体験により価値観形成が行われ、価値観は別の実体験によってその都度書き換えられる。実体験には身体的な感覚や感性的なクオリアも含まれる。知性的および感情的、身体的な価値観はその都度欲求や感情を生じさせ実体験化される。知性的には人間のもつ想像力が観念世界を創造し、創造した観念世界が実体験化される。また、社会や他者と自己との関係性や相互作用は人間的に喜怒哀楽を生じさせ実体験化される。そうした実体験のすべては、結果として「人生の物語」に豊饒な意義を与えている。

ひと一人の「人生の物語」は唯一無二の物語であり、人類全体に広げても誰一人として同じ「人生の物語」は存在しない。

個人の内面に創造された観念世界は個々それぞれ唯一無二の「人生の物語」に依拠するが、その「人生の物語」の些細な全てを言語で表現することは到底かなわない。99%以上が言語から欠落する。しかし、身体性を含めた私たちの観念世界、いわば「自己本体」には100%内蔵されているはずだ。だが意識はそれを知り得ない。

さて、このように意識上での自分はこの構造と力学を知り得ない状況のなか、私たちは自由に思考し判断を下していると思い込んでいる。実際には、自分の「人生の物語」と自分の「観念世界」に基づいた価値観と訓練された思考方法によって意識上の思考を行っている。ということは、意識上の思考に自由意志はない。そうではなく、「自己本体」にこそ、唯一無二のオリジナルな自由意志があるのではないか。

批判的に吟味してみよう。

「人生の物語」も「観念世界」も、外部情報の影響を受ける。社会的価値観と倫理観、あらゆる人間関係、生活活動をする環境の文化的価値観、成育時の教育環境、宗教や思想の情報、精神美学的憧憬の的となるような対象との接触、そのような環境は、ある時は必然的に、ある時は偶然的に、ある時は目的的に、自己の周囲に形成される。身体性もそうで、栄養は外部から摂るほかない。遺伝的気質や先天的能力について言えば、親や先祖の遺伝子はもともと私の外部に有ったものだ。

そう考えてゆくと、私の本性である「自己本体」のすべては、外部を因として形成されていると言えるのではないか。すべてが外部を因として形成されているにもかかわらず、私の「自己本体」に自由意志があると言えるのか。

 

結論もまとめもない。何度も繰り返し深く考え続けることで、意識上の私が知らない私の「自己本体」では自由な思考が展開されていると信じ、哲学の旅を続けよう。旅路をする知の窓は、いつでも広く開け放っておこう。

 

 

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