平成最期の日に


 

今日で平成が終わる。

平成に置き去りにしてゆくことと取り戻すことをまとめておきたい。自戒の念を含め少々辛口になる。

 

1.「平成」は、「昭和」を卒業し「令和」へステップアップするためのモラトリアム期間という一面があった。

敗戦国としての日本

日本政府が「戦後レジームからの脱却」を標榜しても、米国からの圧力をはねのけ米国への依存度を減らし、敗戦国体制を克服した完全な独立国であることを世界が認めないかぎり、日本の独りよがりにしかならず時間がかかることを学んだ。米国との対等な国家関係を長期に目指し、急ぐことは終わりにしよう。

高度経済成長した日本

戦後、日本経済は急成長した。1980年代後半に不動産バブルが起き89年を頂点とした高度経済成長。経済大国日本。そしてバブル崩壊から平成が始まった。失われた10年と呼ばれ、失われた20年と呼ばれ、つまるところ失われた30年となった。30年間そして今もなお勤労者の給与所得平均は下がり続けている。この30年間、政府は経済復興を提唱し続け国民はそれに期待し続け、挫折し続けてきた。過去の栄華を振り返っての「夢よもう一度」はいいかげん終わりにしよう。

日本人の優越コンプレックス幻想

戦後の経済成長は俺たちがやったんだ。高齢者はこう言って胸を張る。確かに日本の自動車産業や精密機器産業、家電産業は世界に名をとどろかせた。土木建築業界も国内経済全体を引っ張った。しかし成長の主たる要因は3つ。米軍空爆による国土破壊の反動、戦後の占領軍による腐敗した政財界体制の解体、そして何よりも人口急増ボーナスだ。各産業は消費者がいなければ潤わない、潤わなければ投資ができない。消費者が急増したことで設備投資が爆発的に進み、研究開発に十分な資金投下があればこその技術の進歩であった。もちろん日本人の勤勉性と職人気質がシナジー効果を生んだことは否定できない事実。

だが経済成長の主たる要因を「俺たちだからできたんだ」とするのは勘違いも甚だしい。もう「昭和自慢」にはご退場願おう。バブル崩壊後に社会人となった50才以下の人たちの能力が原因で、日本経済が下降したような言い方をするな。逆に「俺たちが今の低迷日本をつくってしまった」と自らの責を痛感し内省をする高齢者の方々のなかで、いまだ社会で活躍することに意欲のある人には令和新時代のために、ともに汗を流して頂きたく思う。

自らに何の責も感じずに政治家や社会、景気のせいにするのは、奴隷根性から自立できていないか、無責任きわまる人格か、自分を慰めるなさけない弱虫か、欺瞞か、あるいは無自覚な自己欺瞞だ。

 

2.IT文明への過信と偏重によって失われた、ナマの人間らしさの復権を。

IT進化に対する無自覚な信仰と病い

濁流の如く襲い掛かる大量情報の波に抗うすべもなく、流されるしかなかった。「(IT文明に)ついていく」「(IT文明に)ついていけない」という言葉の流行は、本質を見つめる目を失った「(IT文明に)流されている状態の目からの景色」でしかなかった。IT文明は進化し続け人間社会にとって善だという無自覚な信仰。情報化社会が産みだした功績は計り知れないが、一方でナマの人間の触れあいが激減した。平成後半に厳しくなったハラスメントリスクもあって仕事上の人間関係は形式的で無味簡素に。プライベートにおいてもテキスト上のやりとり主体で、どうして人間の心と心の友好関係が育めようか。日本だけでなく世界的に鬱や統合失調、心を病む人が急増している。

理系重視と人文系軽視の分断

勝ち組か負け組か、損か得か、役に立つか立たないか、このデジタル思考的二元論が表面化したのも平成の特徴のひとつだった。たった一度の表層をすくっただけの結果主義浅薄で奥行きのない功利主義の汚染。ついには国立大学に人文系学部は不必要ではないかという短絡的な議論をも生んだ。もちろん今後も専門分野を深く掘り下げる科学分野での研究や開発が必要なのは言うまでもない。しかしAIが人間知性を超えるシンギュラリティを目前に控えていることを鑑みれば、「創造」こそが人間のすべきこととなるのは自明。今後の創造のためには分断された理系人文系の「学問分野を横断する」取組みが必須となるだろう。特に哲学(価値論・倫理)を中心とした人文系の学問、および人類にとって未だに謎である「無意識」が耳目を集めるはずだ。

自由を勘違いした未成熟な個人主義

IT文明的デジタル思考が世を席巻するにつれ、人文学的な哲学的考察を深めることなく短絡的にアメリカ発のポリコレ運動が起きた。「自由とはなにか」「個人主義とはなにか」について考えることなく単純に、秩序は悪、習俗伝統は悪、古いものは悪とし、そうしたものに「時代遅れ」の烙印を押す平成後期の風潮。「私を束縛するものは何もないはずだ」「多様性社会こそ正義」などはもはや全体主義的な信仰状態となっている。勘違いした自由主義と未成熟な個人主義への暴走が流行したのも平成の特徴だった。秩序があって初めて自由がある。無法地帯に弱者の自由はほぼない。個人主義と、社会的に自分勝手が許されることや協調をしないことは全く異なる。自由と個人主義の実践がいかに厳しいものであるかについて理解を深めていくことは、国民的課題として令和に託された。

 

3.マスメディア情報を盲目的に信じ振り回されることからの卒業

新聞やテレビという情報媒体からの歪んだ情報操作やフェイクニュースが、インターネットSNSのお陰で暴露されるようになった。平成前半にマスメディアは「権力」にまでのし上がったが、平成後半では逆に衰退の一途をたどりつづけ国民からの信頼度も激減した。平成をもって、権力としてのマスメディアはもう終わったのだ。あとは誰がとどめを刺すかだ。

まだ終わったことに気づいていない人が大多数を占めているだけで、つづく令和の時代には業態転換しない新聞社は廃業し、多チャンネル化が予想されるテレビ業界では革命的大改革が求められるだろう。特に5Gの時代に入れば、質よりもスピードの要求される報道はますますインターネット中心になる。遊撃的に軽いフットワークで活動できる個人ジャーナリストの急増は、YouTube等の動画コンテンツの活況をみれば必然だと予測できる。

 

以上、時間切れ。

令和最初の記事に令和日本への思いを込めた抱負を書く。

 

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