弱者の声を代弁する方々


 

風の人モード

「がん患者は働かなくていい」という発言が自民党の大西英男議員からありました。がんには完治はなく、とりあえず、悪性のがん細胞が無くなった状態を寛解と呼びます。寛解した人も「がんサバイバー」というふうに呼ばれるのですが、かくいう私も、がんサバイバーです。

大西議員の発言は、この方の人間性を如実に表しているもので、発言が軽いだとか失言だとかというレベルではない。これにかんしては今後も叩かれるのでしょう。

議員さんの資質どうこうの話は珍しくもなくどうでも良いのです。私にとっては。

 

さて本題です。「がん患者は働かなくていい」と言われて、私はまったく痛痒を感じませんし、寛解する前の状態であっても、がん患者として差別されたことに、1ミリも傷つくことはありませんでした。

もっとも、海外で白人から差別された時にも、或いは子供の頃チビだとけなされた時にも、1ミリも傷つくことはありませんでしたし、その他のことでも、自分が侮辱されたり差別されたりすることで心が傷つくことは、正確に言えば傷ついたと感じたことは、生まれてから一度もありません。

明らかにそういう目で、相手が喧嘩を吹っ掛けてきているときは、こちらから先制攻撃したことはありますが(苦笑)、まあ、そんなときでも心が傷ついたと感じることはない。

原因を考えてみたのですが、十代から二十代前半にかけて勝手に心が鍛えられる環境に身を置いていたと思われ、完全な耐性ができてしまっているのかもしれません。

一般的ではありませんよね、変わっている人だと思ってくださって結構です。

何を言われても心にダメージを受けないということではなく、ごくわずかな一部ですが、普通の人とは違うところにポイントがあるようです。どこだか言いませんし傷ついても言いませんけど(苦笑)

 

なので、「がん患者の皆さんに対して酷い発言だ」とか、「がんサバイバーの皆さんの心を傷つけた」(昨年の都知事選で誰かが言ってましたね)とか、そういう「皆さん」のなかに入れられてしまうのは、腹立たしいのです。

というのも、そうして「皆さん」というステレオタイプを使って、私のことも無断で利用して(冗談ですよ、苦笑)、相手を攻撃する材料にしている心性がいやらしいなーと思ってしまう。

がんサバイバーである三原じゅん子さんが個人的に侮辱されたと感じて怒るのは自由であり、侮辱や差別発言で心の傷つく人が多いことも知っていますので、政治家としての立場もあるでしょうし、三原さんが声を挙げるのは理解できます。また、懸命にがんと闘っている奥さんの気持ちを考えて海老蔵さんが怒りのコメントを発すれば、応援したいと思います。

でもなぜか、がん患者でもサバイバーでもなく、身内にいるわけでもなく、何でもない人が一緒になって「そんなことを言ったら、がん患者さんたちが傷つくだろ!」と怒りの声を挙げる様子をみると、人間の自己欺瞞をつくづく感じます。

差別しているのはそういう人たちも同じなのに、気づかないふりをしているのか、気づいていないのかわかりませんが、弱者の味方の正義ぶって集団の傘に入りこみ、がん患者やサバイバーを無意識下であっても自分よりも弱者として扱い、自己満足しているのはいかがなものでしょうか。

「代弁してやってるんだぜ」と言うのかもしれませんが、頼んだ覚えはない。たぶん、誰も頼んでいないと思いますが。

 

明らかに巨大権力の横暴だとわかるときには、「集団の圧力」「群衆の声」によって闘うというのは十分理解できますし、みこしに担いだ聖者が代表となって戦ってくれる、その背中を押してやろうとする行為は賛成です。厚生省相手のHIV訴訟がそうだった。

ですが今回の相手は、ゴルフ焼けしていかにも仕事していなさそうな、首相派閥の細田派でこの世の春を謳歌している議員さんひとりの話ですし、それに便乗して自民党を攻撃するというのも、まあ、「がん患者・サバイバーのために」と言わなければご自由にどうぞとなりますけども。

今日久しぶりに西尾幹二さんの著書『ニーチェとの対話』を開いてみると、現代社会にぴたりと当てはまる言葉を見つけました。

現代の私たちの周辺の社会にも、臆病で尊大、小心で高慢な人間がいかに多いであろう。個人的には臆病でおずおずしているが、集団をなすととたんに気が強くなり、ひとから与えられるのがあたりまえ、贈られるのは正当な権利であって、みじんも羞恥を感じない人たちである。(西尾幹二著 講談社現代新書 『ニーチェとの対話』 p160)

 

昔と比較したら国民民度は上がっているんじゃないかと思うんです。個人個人の社会的な洗練度は高くなっていると思う。(一方で知的頭脳レベルは下がっていると感じています。昔は現代のように遊びの選択肢や誘惑が少なかったという理由が大きい。)

けれど個人では冷静でおとなしいのに、集団に属すると人が変わったように声が大きくなって叫び声を上げ始める人がたくさんいる。デモに参加する人だけでなく、自民党もそうで、インターネットの炎上参加もそうで、結局、個人の社会的洗練レベルは上がっても、集団活動レベルはむしろ下がってしまった様相を呈しているのではないか。日本だけでなく世界的な問題だと思うのですが、どうでしょう?

 

なぜそうなってしまったんだろう、また、どうしていったらいいのだろう、という問題提起と建設的議論がいつかは始まると思うのです。それを思って細々と、インターネットの片隅のこんなページにひと声あげてみたのですけどもー。

 

ま、今日は、「がん患者、がんサバイバー」にかんしての味方をする記事ばかりが世の中に散乱しているようで、私のようなサバイバーもいるんだよってことで、敢えてそっちに重心を乗せて書きました。

集団化した奴隷の蜂起(苦笑)のような現代世相にかんしては、おまけの勢いで書きました。

 


 

※更新情報

『ツァラトゥストラ』のコンテンツ、『ツァラトゥストラの序説』『三段の変化』『徳の講壇』、それぞれを新たに書いたり加筆修正したりしました。(まだちゃんと校正してはいないのですが)

特に序説がんばりました(苦笑)

ニーチェの本を読んでいない人でも、上記序説の『末期的人間』とか、その他も理解できる項目が複数あるのではないかと思うのですがどうでしょう。長文で疲れるかもわかりません。その点はいつもながらですがご寛恕ください。

 

 

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